まず最初に、たくさんの歴史書を出している、倉山満の場合、厳密な意味で肩書を追加するとかく規定していることに注目したい。
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https://office-kurayama.co.jp/?p=3515
肩書を追加します 2019年1月7日
本日は昭和天皇の崩御の日です。
あえてこの日に、これまでの憲政史研究者に加え、肩書を二つ追加したいと思います。
一つは、皇室史学者を名乗りたいと思います。
現在、皇室は危機にさらされており、正しい言論を伝える人間がほとんどいない状況です。
この状況に鑑み、学徒として皇室の歴史を伝えていくことが必要と考え、今後はこの肩書も使いたいと思います。
もう一つ、歴史エッセイストを名乗りたいとも思います。これまで、憲法と政治と歴史を中心に、学問の前提となる教養に関してエッセーを書いてきました。エッセーには、随筆、読み物、書き物の他に、論文、論考という意味もあります。
わかりやすい肩書を求められる場合もあるので、この肩書も使いたいと思います。
これからは時と場合に応じ、憲政史研究者・皇室史学者・歴史エッセイストの三つの肩書を使いたいと思います。
以上、ご報告いたします。
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この一文から、倉山満は、一般層向けに通史本を書くのはまだ先だと読める。
あれだけの冊数の歴史書を書いてもなお、「通史本レベルの歴史家」ではなく、憲政史研究者・皇室史学者・歴史エッセイストとしている点に注目したい。
参考までに、保守層にて、それなりの評価の、通史本のあとがきを参照したい。
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渡部昇一の少年日本史
あとがき
315頁
本書の『少年日本史』というタイトルですが、昔、私も尊敬する平泉澄先生という立派な歴史家が同じ題名の本を書かれています。平泉先生はプロの学者の視点から『少年日本史』を書かれましたが、その歴史観は私と同じようなものだったと聞いております。一方、私は自分が歴史学の素人であるという自覚を失ったことはありません。そういう立場で日本という国を見たときに、どのような輝ける虹が見えるだろうかということを常に考えてきました。そして、これこそ日本人が見るべき虹だと思ったことをこの本の中で語りました。虹を見るということについては、プロであるとか素人であるとかは関係ないと思っています。
国民の歴史
西尾幹二
あとがき
私はこの運動と本書との関係を次のように考えている。教科書はたしかに改められねばならない。しかし、日本の根っこのところを変えないと、一冊の新しい教科書が新芽を出しても、日本は本当には変わらない。私は歴史の素人である。それでもこんな夢はみる。本書をたまたま読んだ高校生や中学生のなかから、歴史学者になる人が出て来ないとも限らない。そして日本の歴史学会をリードする人にならないとも限らない。そしてその人がつくった教科書で、日本の次の次の世代が生い育つということがないとも限らない。これから五十年も先の話である。会はとうに解散しているし、私もとっくにこの世にいない。
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私は、歴史家として、渡部昇一は評価するが、西尾幹二はあまり評価しない。西尾幹二は、思いつくままに書き綴る癖があることが文体から読み取れ、作法的かつ学術的な意味で歴史書とは言えない気がする。また、西尾幹二が歴史書としては「国民の歴史」が処女作である。
対して渡部昇一は、膨大な数の歴史書を発刊。その集大成が「渡部昇一の少年日本史」。渡部昇一が最後に「少年日本史」というタイトルにこだわった意味はお気づきであろうか?
歴史家として、皇国史観の断絶を嫌い、平泉澄の本のタイトルを選び「渡部昇一の少年日本史」としたと解する。もう一つの理由は以下が参考となろう。
「少年日本史」の中の「少年」という言葉の意味
http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-605.html
渡部昇一はあれだけの数の歴史書を発刊しつつ、「歴史学の素人であるという自覚を失ったことはない」としている。そうであるがゆえに、遺作において、偉そうに「公史」と受け取られるようなタイトルを選ばなかったという見方もできよう。
偉そうなタイトルをつける通史本と、渡部昇一の歴史書に対する考え方は一味も二味も違うと言いたい。
ここで、「良い通史本」の見分け方について述べたい。
・著者オリジナルの視点で書かれていること
・参考となりうる先人の歴史書について紹介していること
・まえがきとあとがきに、通史本にふさわしい、歴史哲学的ないし歴史思想的な記述があること
渡部昇一の少年日本史、国民の歴史、話題の通史本のまえがき、あとがきを比較して読まれんことを推奨する。
簡単に言うと、歴史書の場合は、まえがき、あとがきを読んだだけで、その良し悪しがわかるのである。渡部昇一の場合、ほとんどの歴史書について、まえがき、あとがきは熟慮されたものだった。まえがき、あとがきだけ読んでもためになる内容だった。
最近、流行りの通史本はどうであろうか。まえがきもあとがきも内容的に薄っぺらいものであった可能性はないのか?
歴史書に関連した関連本など、別の出版社から出されている方がおられるようだが、本来は、当該本のまえがきにて記すべきだったのではないだろうか。
以上