マスコミによって辱められた「言葉」を生き返らせよう

  • 2012.05.28 Monday
  • 13:16

戦後、マスコミによって辱められ、以降、普通の日本人が使いにくくなった「言葉」がいくつか存在する。

代表的事例として、「君が代」、「天皇陛下万歳」、「美しい国」、「神の国」などの言葉の意味を今回解説させていただく。

これらの言葉に共通するのは、実は「皇室」である。
皇室は、マスコミの攻撃にさらされているのである。

以下は、解説である。

・君が代

反日マスコミや日教組に言わせれば、「君が代」とは戦争を賛美する歌だそうだ。
しかし、歌詞も由来も戦争に関することは一切ない。
由来を調べれば、新古今和歌集にルーツがあること、詠み人知らずの和歌であることぐらいは知っておいた方がいい。(「君が代 ルーツ」で検索)
http://manyuraku.exblog.jp/10466437/
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/hinomaru.htm
ちなみに、英、仏、米国の国歌は戦争勝利を目的とする国歌である。中共の国歌は抗日戦争の時代の国歌である。

だから、反日マスコミや日教組が指摘する「君が代」は、根本的に格が違う国歌なのだ。


・天皇陛下万歳

左翼は、この言葉を戦争賛美の言葉として侮蔑しているようだが、Wikipediaにもあるが、万歳の言葉の意味は、健康と長寿を願うことである。
言葉の本来の意味まで歪める必要はないはずだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%AD%B3
「天皇陛下万歳」はこのような歴史的経緯から軍国主義、戦争の象徴のような言葉と捉えられることもあるが、実際は天皇の永遠の健康、長寿を臣下が祈るものである。近年でも即位の礼や在位記念式典において公式に使われ、また皇居における一般参賀などの場面において万歳三唱する市民もいる。


・美しい国

安倍晋三首相が使い始めて評判になったが、反日マスコミに袋だたきにされた言葉である。

美しい国

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E5%9B%BD
美しい国(うつくしいくに:Beautiful Country 但しその思想は“State”や“Nation”に通じる)[1]とは、「日本国の安倍内閣が国民と共に目ざす」と宣言した国家像である。
『活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」 』と定義されている


政治的には確かにWikipediaの定義のとおりだと思うが、日本という国の特徴をリストアップさせていただく。

・一国一文明を形成する世界でも稀な国である
・自然が美しい
・水が非常においしい(先進国で水道水がおいしい国
はほかにない)
・都市の景観が美しい(ヨーロッパの歴史的観光都市ほどではないがアジアの中ではダントツ)
・言葉や習慣が他国に例を見ない独自のものでかつ優美である(漢字、ひらかな、カタカナという3文字を駆使する民族は他にない)
・伝統的な習慣自体が美しく優美である(神道の影響)
・料理は他国に例を見ない視覚的に美しく、味は素材の良さを最大限生かしたものが多い(世界が絶賛)
・着物は、世界の女性の憧れの的
・他国に例を見ない、独自の芸術、芸能文化がある(歌舞伎、能、日本画、茶道、生け花、合気道、空手、剣道、柔道)
・伝統工芸が洗練されており、日用品が芸術の次元に達している
・治安が良く、親切で(特に外国人に対して)人々は非常事態になればなるほど団結し、地震や災害の際に各国で見られるような略奪事案はまったくない

さて、これらの項目に関して、これを凌駕する国は、世界のどこを探してもない。旅行すればわかることだ。
マスコミの反安倍キャンペーンに惑わされる必要はない。


・神の国

森首相がマスコミによって、失言扱いとされた言葉である。
日本のマスコミは、失言まで創作しているのである。
そして、失言創作は麻生首相時代に突出したことを忘れてはならない。
「神の国」の意味がわからない方は、「日本人として知っておきたい皇室のこと」という本の第一章を読んでほしい。なぜ、日本が「神の国」なのかわかりやすく書いてある。
http://books.google.co.jp/books?id=3jEO7TVajRsC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false

少なくともいい加減な社説しか書けない新聞社の主張を鵜呑みにする必要はないと思う。

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神の国発言出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索 神の国発言(かみのくにはつげん)とは、2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会において森喜朗内閣総理大臣(当時)が行った挨拶の中に含まれていた、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」という発言。

概要

この時、神道政治連盟の会長は綿貫民輔が務めていた。しかし、当時は前首相の小渕恵三が病死した直後のことであり、その通夜で綿貫は出席することができなかった。そのため、急遽役員であった森が出席し、挨拶を行った[1]。

この発言に対し、野党(特に日本共産党)や朝日新聞・毎日新聞などのマスコミからは「国民主権や政教分離に反するものではないか」との批判がなされ、世間の注目するところとなった。一方で、産経新聞などは「批判は挨拶文の一部だけを意図的に抜き出して曲解した不当なものだ」として首相を擁護した。読売新聞のように発言自体は非難しない立場からも、誤解を招く発言であるとする批判があった。

森は5月16日午後、首相記者団に対して次のように述べた。

主権在民とは矛盾しない。戦前は天皇と結びつけて戦争をした。そこで主権在民・信教の自由をうたい、侵略戦争を放棄するということを国是とした。(天皇中心は)日本の悠久の歴史と伝統文化と言う意味で申し上げており、戦後の主権在民と何ら矛盾しない。

どうして撤回しなければならないのか。話の内容は、もっと命を大事にしよう。生命は神様がくれたもの。その神は天照大神でも、日蓮でも、おしゃか様でも、イエス・キリストでもよい。自分の信ずる神仏でよい。

— 『WiLL』2007年9月[1]

翌5月17日は参議院本会議が開催される日であったが、答弁に先立ち記者団には次のように強調したのだと言う。

誤解を受けたということにおわび申し上げるが、発言を取り消すことではありません。

— 『WiLL』2007年9月[1]

一部世論の反発や与党公明党・創価学会による懸念の高まりを受け、森は続いて同年5月26日に再び釈明会見を行った。その際首相官邸記者クラブの会員記者(NHK所属とされる)が首相側近あてに記者会見の対策文書(指南書)を作ったことが直後に明らかになった。新聞倫理綱領制定時に発覚したこともあり、問題視された[2]。

一方、野党4党は5月16日に国会対策委員長会談を開き、結束して森内閣を退陣に追い込む方針を決定した。

2000年4月5日に就任した森首相は、この発言などから急速に内閣支持率を落とした。その後、6月2日に森首相は衆議院を解散。6月25日の投票日までの間、この発言や「無党派層は寝ていてくれればいい」という発言、さらに五人組による総理・総裁選出の経緯など、森の首相としての資質が盛んに論じられたため、当該解散を神の国解散と呼ぶことが定着した。ただし、これらの発言、経緯にも森は反論を実施していることを付記しておく。

詳細は「森喜朗」を参照

 「神の国発言」の全文
2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会における森の発言

 神道政治連盟国会議員懇談会の三十年ということで、おそらく話があったんだろうと思いますが、この綿貫先生は、綿貫先生はまさしく神の子でありますから、しかも、きわめて位の高い神官でありますから、綿貫さんと私たちは同期生、同じ昭和四十四年の暮れに当選をした。綿貫先生はその纏め役をされておるわけでありますけれども、同じ同期には、当時二十七歳であった小沢一郎さん、その次に若かったのは私、その次に若かったのは私より二つ上の羽田孜さんでした。その次は大阪の中山正暉さん、梶山静六さんもおられましたし、江藤隆美さん、松永光さん、浜田幸一さんと多士済済、いろいろな方がおられた。本当に小沢さんをはじめとして、世間をお騒がせするものが私も含めて、たくさんおったのが、昭和四十四年組でございまして、その中で私どもが、綿貫さんの指導を仰ぎながら、神様を大事にしようという、最も大事なことであり、世の中忘れておるではないかということで、いわゆる神社本庁の神道政治連盟、国会議員懇談会を設立したわけでございますから、まさに私達が中心になって設立し、この活動をさせて戴いたものと自負しておるわけでございます。  村上幹事長その他多大なる御努力のもと、「昭和の日」などの制定を致しましたり、今の天皇のご在位のお祝いを致しましたり、陛下御即位五十年、六十年のお祝いを致しましたり、ま、ややもすると政府側、いま私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になることをしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く、その思いでですね、私達が活動して三十年になったわけでございます。比較的私達の同期というのはしぶとくて、結構国会に残っておりますのは、神様を大事にしているから、ちゃんと当選させてもらえるんだなあと思っているわけでございます。

 とりわけ、今日は梅原先生もいらしておりますが、やはり私は、有難いことに「森」という苗字を戴いておりまして、いまや日本だけでなく、世界中が環境の問題を語るには「森」を大事にしなくてはいけないでしょう。ということになるわけで、小渕さんまで私を大事にして下さったんではないかと思うぐらい、今の立場は本当に、小渕さんの残された仕事、思いをですね、しっかりと私が実行できるように努力せねばならぬ立場にあるわけです。それには、我々の子どもの社会から考えてみますと、やはり鎮守の森というものがあって、お宮を中心とした地域社会というものを構成していきたい。このように思うわけです。

 私が今、小渕総理の後を受けて、こういう立場になって、教育改革をすすめようという教育改革国民会議というものをこうして致しておりますが、少年犯罪がこうしておる状況にアピールをしようと、テーマを造ったわけですが、はっきりいって役所側で作ったもので、みんな大変ご批判がでました。まるで文部省が各教育委員会に通達した文書だったんですが、審議会そのものに対しては文部省の私的諮問機関なので、私がそのものに口を出してはいかん立場なんです。たしかに難しい立場で難しいことなんだけど、要は私は、人の命というものは私はお父さん、お母さんから戴いたもの、もっと端的にいえば、神様から戴いたもの、神様から戴いた命はまず自分の命として大切にしなければならないし、人様の命もあやめてはいけない。そのことがまずもって基本にないといけない。その基本のことが、何故子ども達が理解していないんだろうか。いや子ども達に教えていない親達、学校、社会の方が悪いんだといえば、私はその通りだと思う。

 しかし、昨日沖縄に参りまして、四十七都道府県から子ども達が集まりまして、小中学校の生徒さんが集まるサミットというものをやりまして、そして七月に集まるサミットに提言をしてくれた。その提言を私が戴いたわけでございます。その文章を見ていますと、自然環境を大事にしなければならないとか、そして地球、とかいろいろ書いてあるわけですが、どこにも命を大事にしろとは書いていない。

 ちょうど不思議なことで、その式典に出ようとした時にですね、小渕首相の訃報が入ったわけでございます。沖縄の私のもとに入ったわけでございます。もう胸がいっぱいになりました。もう最後の閉会式のセレモニーでしたから、よっぽどその話をしようかと思いました。しかし、みんな喜んでいやー終ったぞ、という式典でしたから、私は申し上げなかったんです。申し上げなかったけれども、みんな自然を大事にしよう、水を大事にしよう、とっても良いことだと思います。思いますが、地球社会、共生の社会というなら、人の命というのは、どこからきたのか考えよう、この人間の体というものほど、神秘的なものはない、これはやはり神様から戴いたものということしかない、みんなでそう信じようじゃないか。神様であれ、仏様であれ、天照大神であれ、神武天皇であれ、親鸞聖人であれ、日蓮さんであれ、誰でもいい、宗教というのは自分の心に宿る文化なんですから、そのことをもっとみんな大事にしようよということをもっとなんで教育現場でいわないのかな、信教の自由だから、触れてはならんのかな、そうじゃない信教の自由だから、どの信ずる神、仏も大事にしようということを、学校の現場でも、家庭でも、社会でもいわなければならないよということをもっと、私は、もっともっと、日本の国のこの精神論からいえば一番大事なことではないかとこう思うんです。

 私はあまり信心深い方ではないんですがそれでも、朝は、必ず、神棚に水をあげて、そして出て参ります。家にいる限りは。そうすると私の三歳になりましたが、孫が、一歳半から、必ず、一緒にならんでお参りしてくれるんです。今朝も、孫が私のことを先生先生といってくれるんですが、幼稚園に行く前にタッタタと私の寝室にきて、私は、昨日小渕さんのこともあって、大変つかれておったんですが、それでも、孫が起こしにきまして「せんせい」というから、「どうしたの?」というと、「お参りしよう、神様に」というんです。

 これは寝てるときではないなと思って、神棚にお参りした。この子が将来どうなるかは分かりませんが、日曜日には、教会に行っているとのことですので…。神棚にお参りしたり、教会に行ったり、いずれ石川県に行けば、また仏壇にお参りするんだろうと思いますが、要はお参りしようということを、小さな子どもが、お祖父さんがやることによって、覚えてくれる、私は息子や嫁にいうんです。「お前ら一番悪いじゃないか、中間は何にもしない。お前達が何にもしないから、おじいちゃんがやる。そのことによって、ちゃんと孫ができるようになる。」一番大事な家庭のこと、家庭の基本のこと、地域社会のこと、やはり神社を中心にして、地域社会っていうのは栄えて行くんだよということを、みんなでもういっぺん、みんなで、もういっぺん、そんなに難しい話じゃない、であって、そのことを勇気をもってやることが、二十一世紀がまた輝ける時代になるのではないかなということを私は思うんです。こうして全国の皆さん方がお越しの前で、私みたいなこんな余計なことを申すまでもないんですが、立場上、こうしてお話をさせて戴いておるんですが、多くの皆さんに影響力をもたらしてくれる方ばかりでありますので、皆さん方で勇気をもって今の子ども達の社会にもっと神様とか仏様とかということを、そうしたことをしっかりですね、体で覚えてゆく、そうした地域社会を作り出す、秩序ある地域社会を作り出す、そのためにますます皆様方がご活躍をして下さいますよう、またわれわれ国会議員の会も神社本庁のご指導を戴きながら、ほんとに人間の社会に何が一番大事なのかという原点をしっかり皆さんに把握して戴く、そうした政治活動をしていかなければならない。それが私の使命だとこのように思っておるわけでございます。

 たまたま小渕さんが、ご他界になられました。四十三日前にそうしたお立場の中で、私が支え役をしておりました。その中で私はすぐ言ったんです。その小渕さんの跡を戴こうとかそんな事を私は一つも考えておらなかった。私は小渕さんがしっかりやって戴くということを幹事長という立場で、しっかり支えることが私の滅私奉公の立場であっておるんだ、ということを、思っておりましたが、小渕さんがああいうことになって、私が後継になった。そのことが、私は天命と思った。天命ということは神様から戴いた、まさに天の配剤ということであろうかと思いますが、小渕先生が亡くなって、その棺が官邸の前を通って、まわりを回って、そして自宅に帰られた、私はそのことを写真で見ましたが、一点にわかに掻き曇って、そしてにわかに官邸の前を通ったときに、雷鳴があって、私はそのとき思った、何かあったかもしれません。まさに小渕さんはこのとき、天に上られたのか、また天も共に嘆いたのか分かりませんが、いずれにしてもこのとき天命が下ったのかなと思いました。総理大臣になりました時、まさにこう申し上げました。まさに天の配剤だろうと。だからこそ、恥ずかしいことをしてはならない、まさにお天とう様が見てござる、神様が見ていらっしゃるんだということを一つだけ、大事にしながら政治があやまちにならないよう、しっかりと頑張っていきたいと思います。

 ご参集の皆さま、こうして三十年をお祝い下さって、また我が国の行く末を、そして世界の将来をみんなで案じながら、また念じながら、ご指導を賜ることをお願い致しまして、少し長くなりましたが、私の御挨拶とし、御礼を申し上げる次第であります。どうも本日は有難うございました[3]。


創作された失言

神の国発言はその文脈の解釈は別として、存在自体は事実であるが、森についてはマスメディアにより創作された架空の「失言」が存在する。

2000年5月、アメリカ大統領ビル・クリントンとの会談の場において、森が出鱈目な英語の挨拶を行ったという報道が、7月末開催の九州・沖縄サミットへの揶揄と併せて、株式新聞、フライデー、週刊文春により報じられた[4]。なお、週刊朝日はこの話に当初から懐疑的であった[5]。事実は毎日新聞の論説委員高畑昭男(のち産経新聞に移籍、直後に暴露)による創作であり[6]、森はこのデマを批判している[7]。

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最後に、補足となるが、ネトウヨ(「ネット右翼」の略語)という言葉は、反日マスコミや情報工作機関が、愛国主義者を目覚めさせたくない意図により、政治宣伝上、一般大衆に対する悪印象レッテル貼りを目的として編み出され保守勢力全体を辱めることを狙っている。
ただ、ネトウヨは、
「在日韓国人、在日朝鮮人にとって都合が悪い人達」という意味として、最近認識されつつある。

だから、我々は、マスコミにより辱められ、本来の意味を歪められた「君が代」、「天皇陛下万歳」、「美しい国」、「神の国」について、あえて意図して使用すべきなのだ。

さもなければ「廃語」となることを覚悟すべきである。

(参考)
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http://2nnlove.blog114.fc2.com/blog-entry-2476.html

6 :日出づる処の名無し :sage :2010/07/23(金) 00:03:11 (p)ID:UyyNCbQY(4)
政治宣伝のための7 つの法則
 1「ネーム・コーリング」
   攻撃対象の人物・集団・組織などに対し、憎悪や恐怖の感情に訴えるマイナスのレッテルを貼る(ラベリング)。
   メディアやネットによって繰り返し流されるステレオタイプの情報により、情報受信者は、徐々に対象に憎悪を深めていく。

 2「華麗な言葉による普遍化」
   飾りたてた言葉で自分たちの行為を正当化してしまう。
   文句のつけようのない・つけずらいフレーズ・正義を強調し、共感を煽り立てる。

 3「転換」
   さまざまな権威や威光を用いて、自分たちの意見や目的や方法を正当化する、正しく見せかける。

 4「証言利用」
   尊敬される・権威ある人物を使って、自分たちの意見や目的や方法が正しいことを証言・後援させる。

 5「平凡化」
   自分たちの庶民性や、情報受信者と同じ立場・境遇であることを強調し、安心や共感や親近感、一体感を引き出す。

 6「カードスタッキング」
   都合のいい事柄を強調し、都合が悪い事柄を矮小化したり隠蔽したりする。

 7「バンドワゴン」
   大きな楽隊が目を惹くように、その事柄が、世の中の趨勢であるかのように宣伝する。
   情報受信者は、それに従わないことにより取り残される情緒的不安を覚え、結局はその「楽隊」に同調していくことになる。

第二次大戦中、米国の宣伝分析研究所が情報操作の研究を行った結果編み出した、政治宣伝のための7 つの法則

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神社はもっと情報発信すべきである!

  • 2012.05.25 Friday
  • 09:34

私は、最近、皇室関係の本を何冊か読み、結果として自分が神道および皇室に関する一般常識をあまり知らぬまま成人してしまったことに気づき、少々後悔している。

ただ、中西輝政氏など、素晴らしい原稿に出会い、正直感激している部分もある。

日本人として知っておきたい皇室のことhttp://books.google.co.jp/books?id=3jEO7TVajRsC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false

この分野は、親が自覚していない家庭においては、それなりのきっかけや時間的ゆとりがないと一生知らぬままとなる可能性が強い。
私については、振り返ってみて成長過程において、神道、皇室、國體などについて知識を得るきっかけが見出せなかった。

私は、同世代の他の人よりも時間的ゆとりがあったのでなんとか間に合ったが、普通の人はそうはいかない。

だから、気づかせるための情報発信が重要だと思うのだ。

また、小泉内閣以降、宮内庁長官等が女性宮家、埋葬等について、次々と怪しい政策を推進し始めており、マスコミが正確かつ必要な情報配信を意図的に怠り、国民の大多数が真実を理解しないうちに、売国勢力が政策決定しようとしているような気がしてならない。

さらに、日本の一部キリスト教会においては、政教分離を逸脱し、信仰政治活動にますます傾斜しているように見える。彼らは、神社訴訟、靖国訴訟、慰安婦問題について、信者にパンフを手渡しし、教会施設内にて定例的な会合を計画的に実施している。
おまけに、ある一派については、東京の西早稲田のあるビルに、宗教活動団体と多数の政治活動団体の本部が同居するという奇妙な事態が起きている。

http://nyoze.seesaa.net/article/266171055.html

本来なら、この異常状態について、宗教法人の許認可を所管する東京都が何らかの調査、介入すべきだが、実際のところ傍観し続けているようだ。
東京都議会議員の中には、国政マターのことばかり取り上げ、保守だ、愛国だと大騒ぎされている方がいるようだが、実際、この問題について関心ないようだ。足元の問題なのだから、国政のことを意見する前にきちんと取り組んでいただきたいものだ。
なぜなら、ここに宗教系の反日活動の本拠地があり、日本全国が迷惑しているからだ。

そして、この状況において、神道側は何か対策をしているようには決して見えない。

また、神道と思想的に近いと思われる日本会議の支部関係者はというと、「保守イベントの運営、受付などは進んでされているようだが、一般の人を対象とする街頭活動から逃避している」ようなのだ。

実際、「一般向けに活動しないと意味がない」とおっしゃった支部長さんが、一般向けに活動された場面を私は拝見したことがない。

従って、私は、言わざるを得ない、提案せざるを得ないのである。

提案事項は3点

?配布する啓蒙資料の充実
?イベント情報案内の充実
?勉強会の開催
?国旗の掲揚
?署名活動


である。

以下、解説となる。

1.神社の参拝者に対する、啓蒙的資料等の無償配布、有償配布を充実すること

(1)神社本庁

神社本庁のホームページを拝見してみた。
http://www.jinjahoncho.or.jp/index.html

一言で言うと、非常に格調高く、美しいサイトである。
参拝方法についての動画もある。
http://www.jinjahoncho.or.jp/iroha/omairi/index8.html
しかし、残念なことに初歩的なことしか掲載されていない。君が代のサウンドをダウンロードできるが、何かしっくりこない。
デザインポリシーは素晴らしいのであるが、何か出し惜しみしているような気がしてならない。
神道(皇室を含めて)がこれだけキリスト教の攻撃対象にされているのであるから、知りたい人は有料本を買えば事足りるという判断は甘すぎると言いたいし、学校で神道に関することを体系立てて教えない時代に、子が神道の存在と知るのは、親が子供を神社に連れて行くことで神道の存在を子供が知るきっかけづくりの役割を果たしているのであるから、神道に関する大人向けの啓蒙活動は、神社本庁として強く認識すべきなのだ。

ただ、キッズサイトはいいと思う。
・たのしく学べる神社のぺーじ お宮キッズ
http://www.omiyakids.com/


(2)個別の神社

明治神宮では、「教育勅語」が拝領できる。しかし、これだけでは不足である。
一部の神社では、神棚や日の丸が購入でき、日の丸、君が代の由来のパンフレットが入手できるが、もっと知恵を絞って品揃えを増やすべきと思う。

例1:若い人のお祓いや七五三向けに、啓蒙目的のパンフレットを用意
例2:全国各地の神社案内の本の有償販売
例3:神社新報社や明成社の書籍案内
例4:日本会議発行のパンフレットや本の有償販売
例5:神棚等に関する本、パンフの配布、有償販売
例6:お祭りの時の宮中祭祀の紹介

靖国神社境内および遊就館での書籍の販売は充実しており、靖国にある本なら安心して読めるような気がする。
他の神社にても靖国神社と同様、啓蒙のための資料配付、書籍販売等に真剣に取り組むべきと思う。


(3)神道紹介サイト(参考)

・神道の歴史と作法 日本人に必要な神道イズム
http://www.shintoism.jp/index.html

・神道へのいざない
http://www.koshinto.jp/

・神道へのいざないブログ
http://soseinippon.way-nifty.com/shinto/


2.イベント情報案内の充実

日本人として知っておかなければならないこと、日本の伝統文化、日本のしきたり、日本会議主催の建国記念イベント、全国主要都市で毎月開催されている竹田研究会の案内などについて、全国主要神社にて常備されるべきと思う。
日本会議が、初詣の日に、神社境内にて建国記念イベントのパンフの配布活動をやらないことが実に不思議である。


3.勉強会の開催

神社の社務所等にて、勉強会を開催しているケースがあるようだが、どれも非定例のものばかりである。
神道の一般常識、皇室の歴史と役割、國體に関すること、古事記・日本書記、乳幼児教育、などについては、
定例的にカリキュラムを組む価値があるはずだ。

このようなイベント情報については、大阪地区限定であるが、「いのちの風通信」にて継続配信されていることを確認している。
http://www.geocities.jp/ennohana/en20isiguroyosihiko.htm


4.国旗の掲揚

最近、境内にて日の丸掲揚されている神社が増えているようだが、まだ、国旗掲揚ない神社もある。
国旗を販売し、日の丸の由来のパンフレットを備え付けている神社があることを知っている私としては、神社が国旗掲揚するのは当然だと思うし、国旗掲揚は、神社としての意思表示の重要なシグナルだと思う。


5.署名活動

一部キリスト教会施設内において、政治活動のための署名行為等は日常的に行われていることを知るならば、神社施設内にて、署名用紙等が備え付けられることについて、私はまったく違和感はない。
「共産党の人がお祓いに来るので、そのような活動はしない。」と判断された神社関係者がいるそうだが、神社組織がこれだけ政治的に攻撃されてもなお、傍観していること自体問題だと言わざるを得ない。


神社を護るのは私でも市民でもない。神社組織が自ら護らなくてどうするのか。敗戦戦後の葦津珍彦氏の志、情熱を神道関係者は忘れてしまったのかと言いたくなるのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E6%B4%A5%E7%8F%8D%E5%BD%A6


最後に、これだけ反日化したキリスト教組織がやりたい放題やっているのに対し、神道組織は、これまでやらなさ過ぎたと私は考える。

その原因として、神社経営が収入的に安定しているから何もしなくてもよかったことが背景にあるようだが、政治が流動化し、いつ日本解体法案が法制化され、売国議員による独裁政権に移行しても不思議ではないので、神社組織全体が平和ボケした認識を改めるべきと思う。

また、宮司が左翼化したとの噂を耳にしたことがあるが、なおさら、そうでない方が自覚して行動するしかないことを指摘させていただく。


マッカーサーの正体

  • 2012.05.17 Thursday
  • 10:21

JUGEMテーマ:歴史

 

 

マッカーサーに関する個別分析結果のキーワードをグルーピングして並べてみたい。


外交政策的には

アジア蔑視
植民地支配肯定派
人種差別主義者
日本人を根拠なく馬鹿にしている。
反日
朝鮮嫌い?
である。

 

思考回路的には

英雄指向
政治的野心家
出世意欲旺盛
名誉欲、権力欲の塊
独断専行の男である。
自尊心が強く日本に対し復讐心を抱いていた。
支配者であることを印象づけるための行動が目立つ。

従って、東京裁判は、復讐のための裁判という見方ができる。

 

能力的には

陸軍士官学校を抜群の成績で卒業したにしては、朝鮮戦争での北朝鮮の侵攻に驚いた点において、根本的にアジア軍事情勢の分析ができていなかった。

 

政治思想的には

共産主義を徹底的に嫌っていた。
フリーメイソンの立場で行動、発言
強く宗教的影響を受けている

 

 

その一方で、GHQの立場にて、平和憲法成立を主導し公職追放や労働組合運動を推進したことは、マッカーサーかその取り巻きがクエーカーだったことに起因している。今上天皇の皇太子の家庭教師がクエーカーだったことは、GHQ中枢がクエーカーで占められていたことを意味している。
http://www.ashoro-mennonitechurch.jp/essay.html


政治活動家としては

自らが大統領になるための宣伝工作に熱心で
日本人を利用して大統領になろうとした。
GHQの立場を利用し秘密裏に焚書、検閲を行ったのはそういう動機があったのであろう。

南京虐殺プロパガンダもマッカーサーの指示により仕組まれたのかもしれないだ。

そこで、東條英機の遺言を思い出してほしい。

 

 

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http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/10164261.html

東条英機の遺言


 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。

 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。
 
 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せね。
 
 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。

 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。

 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。

 現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。
 また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。

 こんご日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに3年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。こんごのことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。

 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。

 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。それは一応は賢明であるというべきである。しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。

 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。それゆえ、第3次世界大戦は避けることができない。
 第3次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。第2次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。米ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からいうも、第3次世界大戦は避けることはできぬ。
 第3次世界大戦においては、極東がその戦場となる。この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。
 米国は、日本8千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。

 なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。今や戦後3年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。

 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。

 青少年の保護ということは、大事なことである。近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。

 今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。これらについては衷心、謝罪する。これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。

 最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。

 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。学校教育は、人としての完成を図る教育である。従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 以上が昭和23年12月22日夜、死刑執行(12月23日零時)数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が朗読した遺言の摘要である。

 

『秘録 東京裁判』清瀬一郎著(中央公論新社)

 

 

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マーカーサーは、

「事実上の再軍備である自衛隊が再編された事に「結局こうなるなら日本軍を完全に解体するんじゃ無かった」と自らの行いを悔いたという逸話」があるそうだが、

自らが意図した東京裁判にて処刑した東條英機閣下に、自らの判断と行いの間違いを気づかされ、その懺悔のために、「1951年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公聴会に出席し、朝鮮戦争に介入した中国への対処に関する質疑の中で言及。連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と、東條英機閣下の遺言に沿う形で議会証言した可能性があるのだ。

 

なぜなら、マッカーサーは、「日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたい」という信条があったからである。

なお、その議会証言の2日後、「1951年5月5日に米上院軍事外交委員会において上院議員 R・ロングが行った「日本とドイツの占領の違い」に関する回答」にて「日本人12才説」を持ち出しているが、この時点でもまだ人種差別主義者であったということなのだ。

従って、マッカーサーは、人格者でも偉大な男でも決してなく、日本への復讐に没頭するあまり朝鮮半島の情勢分析を怠り、朝鮮戦争を招いてしまった点において、実に愚かな軍人だったのだ!

さて、この愚かなマッカーサーの副官に、ボナー・フェラーズがいたそうだが、彼がもし副官でいなかったら今頃、日本は日本ではなくなっていたかもしれないことを最後に指摘しておく。

 

 

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http://homepage3.nifty.com/katote/Fellers.html

 

ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ

加藤 哲郎(一橋大学、政治学)

 ボナー・フェラーズ(Bonner Fellers, 1896 - 1973)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人で、情報将校である。日本の敗戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)マッカーサー元帥と共に、マッカーサーの副官として来日、天皇制の維持や昭和天皇の戦犯不訴追に重要な役割を果たした。

 

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日本側のクエーカー代表格は、開戦を危惧しつつ亡くなった、あの新渡戸稲造であったことを忘れてはなるまい。

議会証言したからという理由でマッカーサーが親日派だと思い込んではいけない(その1)

  • 2012.05.16 Wednesday
  • 13:17

JUGEMテーマ:歴史

 

最近、マッカーサーがアメリカ議会にて日本がなぜ大東亜戦争を始めなければならなかったのかについて証言した記録が東京都の高校教材として採用されたことが話題になった。

 

 

「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/edc12033008120003-n1.htm


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http://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/edc12033008120003-n1.htm

 

「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
2012.3.30 08:11
[歴史問題・昭和史]

マッカーサー証言
 日本が対米戦争に踏み切った理由について、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったマッカーサーが1951(昭和26)年、「主に自衛(安全保障)のためだった」と述べた米議会での証言が、東京都立高校独自の地理歴史教材の平成24年度版に新たに掲載される。日本を侵略国家として裁いた東京裁判を、裁判の実質責任者だったマッカーサー自身が否定したものとして知られる同証言を、公教育の教材が取り上げるのは初めて。

 昭和の戦争での日本を「侵略国家だった」と断罪した東京裁判に沿う歴史観は、「日本国民は…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」で始まる憲法前文にも反映され、「軍隊を持たず」という国際社会でも異質な国家体制の前提となってきた。歴史教育は「贖罪(しょくざい)史観」一辺倒となり、子供たちの愛国心を育んでこなかった。その歴史観が絶対ではないことを示すマッカーサー証言の公教育での教材化は、戦後日本の在り方に一石を投じそうだ。

 証言は、朝鮮戦争で国連軍やGHQの司令官職を解任されたマッカーサーが1951年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公聴会に出席し、朝鮮戦争に介入した中国への対処に関する質疑の中で言及。連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。

 都の教材は、この部分の証言を英文のまま掲載し、《この戦争を日本が安全上の必要に迫られて起こしたととらえる意見もある》としている。

教材は、江戸時代以降の日本の歴史を、東京の歩みとともに紹介する『江戸から東京へ』。都教委が都立高校の全生徒に平成23年度から配布している。都民の意見をもとに改訂した24年度版は、全新入生約4万3千人に配布する予定。

 『江戸から東京へ』に掲載されたマッカーサー証言については、月刊「正論」5月号(3月31日発売)が詳しく紹介している。

 渡部昇一・上智大学名誉教授の話「連合国から東京裁判の全権を委任されたマッカーサー自身が米議会で『日本の自衛戦だった』という趣旨の証言をしたことは、村山談話に象徴されるように東京裁判を背負ったままの日本にとって“超重大”であり、すべての日本人が知るべきことだ」

 ■村山談話 戦後50年の平成7年8月15日、当時の村山富市首相が発表。わが国が「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たとし、「痛切な反省の意」「心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明。以後の内閣もこの見解を踏襲してきた。


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この議会証言の事実をこのニュースで初めて知った人は、きっとマッカーサーは親日派に違いないと思われるに違いないのだが、実は、その生涯を辿ると実に意外な側面があることに気づかされるのである。

今回は、マッカーサーが実際、どういう人物だったのかWikipediaから引用する形で考察する。


・父と同様フィリピンに勤務経験があり、父に随行する形でアメリカ大使館に勤務した。
→政治的には父親と同様の思想の持ち主と思われる。

 

・父は軍人でフイリピン初代軍政総督であった
→父と同じような経歴を持っていることから基本的にはアジア蔑視、植民地支配肯定派であると考えられる。

 

・フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係
→フランクリン・ルーズベルト大統領時代に、軍の司令官であったことから、フランクリン・ルーズベルトと同様、アジア蔑視で反日だったと考えられる。

 

・アメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで二名しかいない
→英雄指向の人間である。

 

・マッカーサーはウィルソン大統領に「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案、マッカーサーはウィルソン大統領に「虹のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と提案
→政治的野心を持った人間である

 

・戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。
→出世意欲旺盛

 

・フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。
→共産主義を徹底的に嫌っていた。

 

・1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

→フリーメイソンの立場で行動、発言した。

 

・日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じ、報告した。
→人種差別主義者だった。

・日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。
→自尊心が強く、日本に対し復讐心を抱いていた。

 

・1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。
→過去の汚名の挽回

 

・マッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。
→植民地主義を肯定する人種差別主義者がとった行動としては、異常である。何らかの意図を感じる。

 

・マッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かった
→支配者であることを印象づけるための行動。植民地主義者、人種差別主義者だから略装だった。

 

・東條は、重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。
→結果的には東京裁判のための下見に過ぎない。

 

・マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。
→神学者という言葉から強く宗教的影響を受けている。


・大統領選出馬
→名誉欲、権力欲の塊

 

・「日本の占領統治は非常にうまく行っている」、「日本が軍事国家になる心配はない」というメッセージを発表
→自らが大統領になるための宣伝工作


・町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。
→日本人を利用して大統領になろうとした。


・北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って日本の降伏から5年で、平和が破られたことに衝撃を受けていた。
→アジア軍事情勢のこれまでの分析が根本的に間違っていた。

 

・マッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。
→独断専行の男である。

 

・マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。
→アジア蔑視、人種差別主義者

 

・科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が 45 歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ 12 歳の少年である。
→日本人を根拠なく馬鹿にしている。

 

・マッカーサーは、広島長崎への原爆投下を批判している。
→戦略的に無意味である趣旨からの批判であるが、自分の功績が霞むことを危惧しての発言と考えられる。

 

・一回もマッカーサーは朝鮮に宿泊することがなかった。
→朝鮮嫌いと考えられる。

 


 

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC


生涯

 生い立ち

1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子二代でフィリピンに縁があった。

母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれである。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として 1923年に死亡。弟マルコムは 1883年に死亡。甥のダグラス・マッカーサー2世は在日本アメリカ合衆国大使となる。

フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。

幼少期は、母ピンキー・マッカーサーによってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって陸軍士官学校に入学させられることとなる。

 陸軍入隊
1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで二名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。

卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてアメリカの植民地であったフィリピンに配属された。彼の長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。

 第一次世界大戦

1918年、第一次世界大戦中のフランス。レインボー師団司令部で。その後に陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長という要職についた。1917年(大正6年)4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦することが決まった際、マッカーサーはウィルソン大統領に「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案した。「アメリカ人は一丸となって戦いぬく」という姿勢を示すことでアメリカ国民の戦意を鼓舞するためであった。

ウィルソン大統領はマッカーサーの提案を採用し、各州の州兵からなる第42師団を立ち上げた。マッカーサーはウィルソン大統領に「虹のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と説明し、これに感銘を受けたウィルソン大統領は第42師団に「レインボー師団」の名前を与えた。

マッカーサーは第42師団「レインボー師団」の参謀長・旅団長に就任した。同師団は1918年(大正7年)2月に西部戦線に動員され、アメリカ軍で第一次世界大戦の実戦に参加した最初の部隊の一つとなった。マッカーサーは雨のような銃弾にもひるまず、突撃隊を率いて果敢に敵の陣地を強襲した。戦場において二回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。

このヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。

戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。

 陸軍参謀総長 [編集]1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付いた。

1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いた政府が、マッカーサーの計画案を許可して行われたものである。マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。

フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。

 フィリピン生活
1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーがアメリカ陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。なおこの頃もアイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めていた。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した[1]。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。



その2に続く

議会証言したからという理由でマッカーサーが親日派だと思い込んではいけない(その2)

  • 2012.05.16 Wednesday
  • 13:16

JUGEMテーマ:歴史



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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC


 太平洋戦争
 現役復帰
フィリピン国内の基地で演説を行うマッカーサー1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、アメリカが対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。一度は大将に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とする海軍のアジア艦隊司令長官で、知り合いでもあったトーマス・C・ハートが大将なのも気に入らなかった[2]。中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた[3]。

 フィリピン撤退
12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じ、報告した[4]。

 
オーストラリアに退却したマッカーサー怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。二ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく応じた。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされ、"I shall return" (必ずや私は戻って来るだろう / 私はここに戻って来る運命にある)と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイング B-17 でオーストラリアに飛び立った。

この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

 フィリピン反攻
レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸した。フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、殲滅は出来なかった。この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。


 GHQ最高司令官
 
「バターン号」で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー1945年8月14日に日本は連合国に対しポツダム宣言の受諾を決定。戦争終結のための調印式が、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に行なわれ正式な降伏へ至った。直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。

メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する

- 朝日新聞(1945年8月31)

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した皇居前の第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談を行った。この会談においてマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。なおマッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かったために、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある[5]。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQ の反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これを切っ掛けとして GHQ は「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66) を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国軍と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

占領下の日本では GHQ/SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、後に東條は、重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという[6]。

マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。ただ彼は結局、その後の政治家と上層部の「共産主義に対抗する」思惑のもとに事実上の再軍備である自衛隊が再編された事に「結局こうなるなら日本軍を完全に解体するんじゃ無かった」と自らの行いを悔いたという逸話が一部に伝わっている。


 大統領選

占領期間中、マッカーサー自身は 1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび、「日本の占領統治は非常にうまく行っている」、「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。

マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心[7]に、シカゴ・トリビューン紙のロバート・マコーミック社主や、やはり新聞のランドルフ・ハースト社主がいた。ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

だが、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。

 

朝鮮戦争

北朝鮮による奇襲攻撃
金浦で閲兵を行うマッカーサー第二次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時、マッカーサーは、アメリカ中央情報局 (CIA) やマッカーサー麾下の諜報機関 (Z機関) から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかったので、北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って日本の降伏から5年で、平和が破られたことに衝撃を受けていた[8]。 

だがその後は、「韓国軍は奇襲を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いない」と考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった(GHQ 外交局長だったウィリアム・シーボルト『日本占領外交の回想』による)。6月27日にマッカーサーは、朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶・飛行機の手配を行った。なお朝鮮半島には国連軍として、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍なども参軍展開した。

28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。

かつてマッカーサーは李承晩らに、1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。その言葉通り、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、その後前線視察を行い、兵士を激励鼓舞しすぐさま東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も暮らし慣れた東京を拠点として戦線に向かい、一時滞在し、また東京へ戻るという指揮形態を繰り返した。これらの行動は状勢判断を誤り、後に成立間もない中華人民共和国の人民解放軍参戦を招く一因ともなった。


仁川上陸作戦

仁川上陸作戦の指揮を執るマッカーサー7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第八軍を援軍として派遣したほか、イギリス軍も追加派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、軍部の殆どが反対を表明、国防総省からシャーマン海軍作戦部長を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。

この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転、9月になると国連軍はソウルの奪回に成功した。これはマッカーサーの名声と人気を大きく高めた。


中国人民志願軍の参戦
その後マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上するものの、トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。しかしマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

その結果、中華人民共和国に過度に警戒心を抱かせることとなり、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」の参戦を招くに至った。その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。


更迭

総司令部を去るマッカーサー、世界通信より1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」としてこの意見を退けた。

マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視して北上を続けたために、中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。

マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かって「ジーン、これで帰れるよ」と言ったと伝えられている。

マッカーサーの更迭については、日本の行き過ぎた非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも自分たちの負担増という観点から多くの異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。また、吉田茂の日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に東京国際空港から離日した。




その3に続く

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