【大東亜戦争に関する世界の日本に対する評価 コメント集】

  • 2011.06.30 Thursday
  • 05:48

JUGEMテーマ:歴史

 

 

世界の指導者たちの大東亜戦争に関する日本に対する評価・コメントが非常によくまとまっているサイトを見つけた。

以下は、ブログ「風林火山」からの転載。


http://ochimusya.at.webry.info/201106/article_11.html

【大東亜戦争に関する世界の日本に対する評価 コメント集】


■ククリックド・プラモード(タイ、元首相)

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。

日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。

十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。
我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )


■ラグ・クリシュナン(インド、元大統領)

インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。
それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。
驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。
(昭和44年「日本経済新聞」)


■ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)

我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。

それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。

日本が敗北したとき、「これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる」と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。


■ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)

要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。

私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。

それなのに、あなた方は自分らの子弟に「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」と教えている。

満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。

あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)


■朴 鉄柱
(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)

「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」

「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。

それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。『事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし』というのが、開戦時の心境であった。

それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。

日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。

戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。

日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、『聖なる戦争』であった。

ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」 ( 昭和42年10月 )


■H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」


■ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)

日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略)

インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。

日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。


■バ・モウ(ビルマ元首相 独立宣言より) ※ビルマは現在のミャンマー

約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器を使用せり。

ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。

ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。

ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり。(一問に百答 日下公人 PHP研究所)


■モハマッド・ナチール (インドネシア元首相)

大東亜戦争というものは、本来ならば私たちインドネシア人が独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争とはそういう戦いだったんです。


■アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)

第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。

その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」)

英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。

なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。

1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。(昭和43年三月二十二日「毎日新聞」)


■ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)

日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。

それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)


■ハミルトン・フィッシュ(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))

ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。


■ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。
 
日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。

民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)

さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256〜7ページ)


■ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)

すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)

1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)


■グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。

インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)


■ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)
 
チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち、「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253〜4頁)


■アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
 
日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。

日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。

その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略)

(日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)


■ガザリー・シャフェー
(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
 
日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。

「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。
 
『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。

そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)


■朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}
 
「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ? 黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか? しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」


■ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)

この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!


■スリム中将(イギリス第十四軍司令官)

たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。(「敗北から勝利へ」)
 
かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)


■蒋介石

ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む。


■ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)

これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)


=============================================================



参考URL:

日本がアジアに残した功績

http://www.geocities.jp/ryokuin_seidan/img1/japan1_index.htm

花うさぎの「世界は腹黒い」
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/2317343/

盧溝橋事件の真相

  • 2011.06.28 Tuesday
  • 11:39

JUGEMテーマ:歴史

 

盧溝橋事件については、関東軍により行われた謀略だと、我々が学んだ自虐的教科書にはそう書いてあった。
教科書にそう書いてあるからと言って、うのみにする必要はないのだが、歴史を研究する人たちの努力によって、分析が進み、謀略の全貌が明らかになった。

盧溝橋事件の真相については、加藤康男『謎解き 張作霖爆殺事件』(PHP新書)のほかに、次の2つの情報を読んでおけば十分と思う。

最初は、宮崎正弘のメルマガ。


………………………………………………………………………………
http://melma.com/backnumber_45206_5201005/

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
       平成23年(2011)6月4日(土曜日)
         通巻第3340号   
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ◎書評 ブックレビュー しょひょう BOOKREVIEW 書評◎
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

河本大作は利用されたのであり、背後にはコミンテルンの謀略
 張学良は父親殺しがばれないよう爆破実行犯を闇に葬っていた

  ♪
加藤康男『謎解き 張作霖爆殺事件』(PHP新書)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 待望された本がでた。
 張作霖暗殺の真犯人は誰か? ミステリー仕立ての歴史クイズのような題名だが、中身は資料の検証と徹底研究。この著作の出現で張作霖暗殺のこれまでの解釈が大きな間違いであることを読書人は知らされる。
 とくに『歴史探偵』を自称する無知暴走の半藤一利とか、ミクロにこだわって大局観のない秦某、保坂某らはグーの音も出なくなるだろう。いや、かれらはこの本を無視して黙(だんま)りを決め込むだろう。
 それほど決定的なのである。
 河本大作が張作霖爆殺の『真犯人』というのは、本人が拡声器のように吹聴し、手柄にしたからで、戦後もそれが一人歩きした。事件後、河本はひそかに英雄視され、軍法会議にもかけられず、遺族も信じ切った。かつ河本は山西省に石炭企業の幹部として戦後も居残り、ついにはシナの捕虜となったが東京裁判への出廷はなかった。供述調書には曖昧な点が多く、また矛盾しているため連合国側もまずい、と判断したからだろう。
 戦後しばらくして『文藝春秋』に掲載された河本の手記なるものは、本人がしゃべったとされるシロモノ、信憑性に問題がある。
 従来の「定説」を革命的に突き破ったのはユン・チアンの『マオ』(講談社)だった。
あれはソ連がやったと断定したのだ。
突破口となったのは冷戦終焉とともにソ連が崩壊し、飛び出したKGBの秘密書類だった。
すなわち張作霖爆殺はコミンテルンの謀略の一環であり『日本軍の犯行に見せかける』様々な偽装工作と政治宣伝とが、同時に仕組まれていた。
 その謀略に踊らされたのが河本一派であり、さらに言えば河本の仕業と誤認した関東軍であり、いや、もうひとりコミンテルンに結局は手の上で踊りをすることになった張学良である。

 黄文雄さんがおもしろい指摘をしている。
「中国の歴代皇帝206人のうち、じつに63人が親兄弟従兄弟縁戚によって殺されている。だから張作霖という中国東北地方の『皇帝』が謀殺されたと聞けば、真っ先に疑うのは家族身内眷属であり、したがって張学良が一番怪しいのです」。

 本書は、その張学良への疑惑が基調となっている。断定はしていないが読後感では強く、この独裁者の息子の存在、前後の不振な行動に大きな疑惑が残るのである。
 ざっとおさらいをしておこう。
 瀋陽駅の手前一キロの地点、満鉄と交差する要衝で、張作霖の乗った特別列車は爆破され、貴賓室、食堂車装備の車両の天井が大破したが、河本らがしかけたと主張する線路脇の壁であるとすれば、レール路に大穴があいたはずである。
残された現場写真は、無惨に天井が吹き飛んだ張作霖の乗った列車がさらされているが、レール路に穴はあいておらず、ちょうど満鉄とクロスする満鉄側のレールが下へおちている。
 だから現場を精密に観察し、見取り図をのこした日本領事館の内田五郎領事は次の報告書をまとめていた。
「爆薬は橋上地下または地面に装置したものとは思われず、結局爆薬は第八十号展望車後方部ないし食堂車前部付近の車内上部か、または橋脚と石崖との間の空隙箇所に装置せるものと認めたり」(昭和三年六月二十一日付け)。
 
つまり、河本らの仕掛けた爆弾は破壊力が散漫で、かつ誘発爆発だった可能性がある、と著者は示唆する。
しかも列車は意図的に速度10キロに落とされていた。
このことを当時の日本領事館が克明に報告書にしていた。にもかかわらず半藤某、秦某、保坂某は、この「都合の悪い歴史的資料」を一切無視した。
 本書の強みはロシア語からの新資料、ブルガリア語の書籍による傍証に加えて、もう一点の決定打がある。
それは加藤氏がロンドンのアーカイブへ一週間かよいつめ、ついに見つけ出した資料だ。MI6が日本側の分析した資料を入手していたのだが、現場地図解説の資料の発見により、河本単独説は潰える。
 関東軍の犯行説は『コミンテルンにうまく利用されて犯人に仕立て上げられた』のであり、真犯人は蒋介石のエージェント、ソ連、そして張学良に絞り込まれるが、事件から半年後、張学良は(犯行を実践した疑いが最も濃厚な)楊宇挺と、常蔭塊のふたりを「新年会だ。麻雀をしよう」と偽って呼び出し、「反乱容疑」をでっち上げて暗殺した。その秘密保全のための事後処理ぶりからも、もっとも疑わしいことが分かる。
 こうして疑惑の張作霖爆殺の真相は、事件から83年目に露呈した。


http://melma.com/backnumber_108241_5203507/

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◎読者の声 どくしゃのこえ ドクシャノコエ DOKUSHANOK
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ♪
(読者の声1)前号に書評の出た、加藤康男『謎解き 張作霖爆殺事件』
(PHP新書)について。

河本大作は利用されたのであり、背後にはコミンテルンの謀略。張学良
は父親殺しがばれないよう爆破実行犯を闇に葬っていた.<引用終わり>。

想:今回、加藤康男氏がこの問題を発表されたのは実に素晴らしいこと
です。早速購入いたします。

 (1)張学良の関与:この事件について私が分からなかったことの一
つは、張学良が事件直後北京から父の葬儀と跡目相続のため変装して一
週間かけて奉天に戻ったことです。これは、張学良にとって日本軍は危
険ではない、すなわち、日本軍が張作霖を殺したのではないことを知っ
ていた事を示します。加藤氏の研究はこの謎を明らかにしてくれました。

 (2)爆殺ではない:張作霖と同一車室にいた日本軍軍事顧問の儀我
少佐によると、張作霖は列車の急停車で鼻血をだした程度でした。だか
ら現場から奉天の屋敷にゆく途中で殺されたと思われます。河本の役目
は列車を止めるだけで、別に暗殺部隊がいたと思われます。爆殺ではあ
りません。

 (3)ソ連の張作霖暗殺動機:ソ連は支那満洲工作を軍閥別に行って
いました。張作霖はソ連を敵視しており、1927年には北京のソ連大使館
を占領し、機密謀略文書を公開しました。また当時満洲を狙う米国が張
作霖に満鉄並行線や包囲網建設のための莫大な鉄道借款を与えていまし
た。そこでスターリンが報復と、米国の張作霖を利用した満州進入を防
ぐために、張作霖を暗殺したという説があり合理的です。

 4)西安事件の謎:これは今では結果から見て事件の内容は明らかで、
謎ではないと思います。中共にとり都合が悪いので謎としてごまかそう
としているのでしょう。だから親中の近代史研究者は西安事件を孤立し
た事件とみて矮小化し隠蔽します。しかし欧米の研究者は真の支那事変
の発端と見ているそうです。

 (5)なお西安事件後、蒋介石が張学良を殺さなかったのは、学良が
莫大な財産(当時で5億ドル)を宋美齢に贈り、命乞いをしたからと言
います。学良は宋美齢を「姉さん」と呼んで保護してもらっていました。

学良が事件解決後、蒋介石の南京行きの飛行機に急遽乗り込んだのは用
済みで中共に消される事を恐れたのでしょう。蒋介石は西安事件のもう
一人の裏切り者楊虎城は台湾脱出直前に家族もろとも処刑しています。

楊虎城の息子の一人は、共産党の延安に行っていたので助かりました。

 (6)蒋介石は南京帰還後二度と学良に軍事指揮権を与えませんでし
た。そして台湾脱出後も張学良を「お前のために支那を失った」と終生、
許さなかったそうです。
    (東海子)

━━━━━━━━━━━━━━
張作霖爆殺事件の真相(補遺)
━━━━━━━━━━━━━━
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
       平成23年(2011)6月6日(月曜日)弐
         通巻第3342号     
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 張作霖爆殺事件の真相(補遺)
  やはりソ連の謀略機関が暗躍していた
 *******************************

藪の中に埋もれたままの歴史的事件のなかでも最大の謎を秘めるのが張
作霖爆破事件だろう。

これまで張作霖爆殺事件の犯人は河本大作(関東軍参謀、大佐)と『断
定』されてきた。あたかも確定した歴史的事実のように、この虚説がま
かり通ったのは河本自身が「わたしがやった」と言い残し、かつ自著に
も明言したからである。
 
河本大作は明治16年、兵庫県生まれ。陸軍士官15期。同期の桜には
乃木希典次男の保典(日露戦争で戦死)がいる。

彼自身は、日露戦争で重傷を負い、ついで陸軍大学(26期)、大佐で関
東軍参謀。昭和3年(1928)、張作霖爆殺事件を引き起こし、軍主流か
ら外されて予備役に。その後の河本大作は「経済人」の人生を歩み、満
鉄理事、満州炭坑理事長から山西省のコングロマリット=山西産業の社
長となる。
 
山西産業とは軍が独占的に管理する企業36社を束ねた、当時のコングロ
マリットで、閻錫山軍閥の「西北実業公司」を接収した。

資材が優先的に割り当てられる国策会社だから競争力は強い。傘下には
炭坑、鉄鉱、機械、化学、紡績、食品などの工場があり、満鉄のつぎの
規模を誇った。国策企業として満州へ進出した鮎川義介の「日産」と比
肩されたほどだった。
 
閻錫山はアンチ蒋介石という人脈からか河本とは大連時代に面識があっ
たらしい。

昭和20年、突如の敗戦。河本はしかし閻錫山の山西軍閥と共闘し、山西
省で最後まで戦い1949年、国民党は負ける。翌50年、河本は中国の捕虜
となって山西省太源の収容所にぶち込まれた。6年後の昭和30年、収容
所で死亡、遺骨は日本に戻った。

張作霖爆殺事件は1928年6月4日、北京から満州にもどる張作霖の列車
が奉天(瀋陽)付近で爆破されたもので、河本の部下らの「犯行」とさ
れた。
 
爆弾は橋梁に仕掛けられた、とされた。念を入れるかのように河本伝記
が作られ「私が張作霖を殺した」と記述した。1954年の『文藝春秋』(12
月号)に河本が手記とされたものが掲載された。だがこの時点で河本は山
西省太源の収容所にいたうえ、自筆の手記は一切残っていない。まして、
河本は東京裁判でも証言台に呼ばれていない。
 
「従来の定説・河本大佐犯行説の裏付けとされているものは、殆ど全部
が伝聞資料」とした中西輝政が行った。

それもかなりの歳月を経たあとに某某からから聞いた、関東軍の参謀か
ら聞いた事があるなど資料価値がゼロのものばかり。

当時から、この河本伝記は資料的価値がうすいとされてはいた。なぜな
ら河本の自伝なるものは義弟・平野雫児が聞き書きをしたものであり、
平野は思想的に左翼人で戦前、治安維持法で何度か検挙されている。

爆破現場の写真が残るが、橋梁や線路地下に仕掛けた爆弾ならばV型の
穴が出来るはずだ。それが見あたらない。つまり爆弾は車内に仕掛けら
れていたとする説のほうが、科学的であり、説得力がある。

となると河本大作の発言はデタラメか、自慢するための見栄か、或いは
収容所内での洗脳の結果であろう。マインドコントロールで自分がやっ
たと信じ込んでしまった。

山西省で最後まで闘った日本人部隊は、その後シベリア抑留されたが、
毛沢東が『奪回』し、遼寧省撫順や太原の収容所に集められた。そこで
徹底的な洗脳がおこなわれ、「中帰連」が結成された。

この中国共産党の言い分をそのまま主張する「中帰連」が、日本に帰国
後なにをしたか、何を言いだしたかは指摘するまでもないだろう。731部
隊は衛生、防疫部隊だったが、それを細菌兵器開発所だとか、生体実
験をしたとか突如言い出したのも彼らである。

冷戦がおわってソ連の機密文書が次々と明るみに出たが、耳目を集めた
第一弾はノモンハン事変で日本が事実上勝っていたことだった。

2005年、ドミトリー・プロホロフという作家がGRUに従事した経験か
ら、独特のカンで張作霖事件の機密文書をさがしあて、真犯人をロシア
特殊工作による謀略と断定した著作を発表した。

ドミトリー・プロホロフ説はこうである。

「1924年、張作霖とソ連政府は中国東北鉄道条約を締結し友好関係を結
んだ。これにより(中略)東清鉄道は双方による共同経営となった。

しかし張作霖側の鉄道使用代金が未払いだったためソ連が抗議、26年に
鉄道の使用禁止を通達したことから両者の関係は険悪化、張作霖はソ連
の鉄道管理局長を逮捕して鉄道を事実上占拠した。

背景にはソ連が支援した蒋介石軍の中国国民党と張作霖との対立」があ
った。そこでソ連は張作霖の排除を決め、ソ連軍特務機関のサルヌイン
に命じた。

「1926年9月、奉天にある張作霖宮殿に爆発物をしかけて爆殺する計画
だったが、張作霖側もかねてから警戒を強めて満州在住のサルヌインの
工作員をマーク、別の工作員がソ連から爆発物を持ち込んだところで、
計3人を逮捕、未遂に終わった」 

この知られざる未遂事件は、白系ロシア移民のバーラキシンが著書で明
らかにしているという。

ソ連が自分を殺そうとした未遂事件に激怒した張作霖は、翌年に「ソ連
領事館を強制捜査したり、ソ連汽船を拿捕したり、中国共産党員の大量
逮捕」、「さらに満州に亡命していた白系ロシア人の武装組織や略奪を
働いていた集団などを扇動、支援してソ連領内への襲撃を仕向け」た。
このためスターリンは再度、張作霖暗殺を命じた。

「暗殺計画の立案と実行をエイチンゴンと前回の暗殺計画で失敗したサ
ルヌインに命じた。(中略)日本軍が警備にあたっていた区間」が現場と
なった。意図的である。「張作霖が当時、米国と接近していたので日本
が満州の支配を失うおそれがあるという危機感をもっていたことが動機
とされ、ソ連の謀略はまんまと成功した」(以上はプロホロフの『KG
B――ソビエト諜報部の特殊作戦』より)。

そして事件から77年も経って、ユン・チアンは『マオ』を著して世界的
センセーションを呼び起こした。
 
彼女も張作霖爆殺事件の犯人は日本ではなく、ソ連工作員の仕業と断定
し、それをソ連崩壊後の機密文書から探し当てた。ユン・チアンの夫ハ
リディはロシア語に堪能。

元谷外志雄はプロホロフの住むサンクト・ペテルブルグ(旧レニングラー
ド)へ飛んだ。元谷はインタビューに成功し。プロホロフから次の証言
を引き出す。

プロホロフ (出版した本は)ロシア以外で行われた、KGBが関与した
事件について書いています。張作霖の事件はその一つです。張作霖のプ
ロフィールに加え、なぜソ連が彼を暗殺しようと考えたか、1928年
6月の爆殺とその二年前にあった暗殺未遂事件について記述しています。

元谷 未遂事件があったのは知りませんでした。2回にわたってソ連が
張作霖を殺そうと思った理由は、何なのでしょうか?

プロホロフ 当時の中国の権力者は、共産党を支持するものと、張作霖
のように反対するものに分かれていました。張はロシアの反革命軍であ
る白軍の支援をしていました。さらに東清鉄道を巡って、張とソ連は決
定的に対立していたのです。

元谷 そういう背景があったのですね。当時の特務機関の活動を、プロ
ホロフさんはどうやって知ることができたのですか?

プロホロフ 歴史の本や当時の新聞などの記事、その他資料を読み込ん
だり、他のジャーナリストと情報を交換したりして、調べていきました。

歴史家のヴォルコゴノフ氏の本の中で、ナウム・エイチンゴンという諜
報員が張作霖事件に関係があったという記述を見つけたのが、私の研究
の出発点です。

元谷 先にソ連の関与を指摘した人がいたのですね。

プロホロフ  そうです。1926年9月の張作霖暗殺未遂事件は、クリスト
フォル・サルヌインというラトビア人のソ連の工作員が、ブラコロフと
いう実行者を使って、奉天の張作霖の宮殿で彼を爆殺する計画でした。
これは中国当局に発見されて失敗します。

1928年の爆殺も実行の指揮をしたのは、サルヌインだと考えられます。
どうも彼と繋がっている人間が、日本軍の中にいたようです。

元谷 関東軍の中にソ連の特務機関の手先がいたということですか?

プロホロフ サルヌインだけではなく、他のソ連の工作員のエージェン
トも関東軍に入り込んでいました。これは事実です。

元谷 サルヌインは最初から日本軍の仕業にみせかけるために、日本人
の実行者を使ったということでしょうか?

プロホロフ そうです。日本軍に属していたエージェントが、サルヌイ
ンの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと考えられます。
 
田母神前空幕長とプロホロフを引き合わせつぎの対談もおこなっている。
なぜロシアが、このタイミングを撰んで、80年前の機密を明かしたかの
政治的な意図を田母神は探ろうとしているのである。

田母神 今中国が、経済的にも軍事的にも台頭してきています。中国が
力を持ちすぎることは、ロシアにとっても好ましくないことです。中国
は日本に過去の清算を求め続け、外交交渉を有利にして、日本を自国の
利益に貢献させようと画策し続けています。

日本が真実の歴史を取り戻して中国に対抗するために、ロシアからの歴
史情報は非常に貴重なものです。これで日本が中国を牽制することは、
ロシアの国益への貢献にもなると思うのです。

プロホロフ 中国のこの10年間の動きには、目に余るものがあります。(
2009年)数カ月前にも、中国はロシアの国境近くで大きな軍事演習を
行いました。その目的は明確ではなく、非常に不透明です。中露間には
数多くの問題があります。

アムール河沿いにある中国の黒河市からは、汚水がロシアに流れ込み、
天然記念物のシベリアンタイガーなど付近の生態系に悪影響を与えてい
ます。何度抗議しても、止めようとしないのです。

歴史に関しても中国は傲慢な国です。彼らは自分たちに都合のよい歴史
的事実を探してきて、それを他国に攻撃的にぶつけてくるのです。これ
に対しては断固戦わないと駄目です。戦わないと止まらないのです。

共通の利益がある日本とロシアが手を組んで、中国に対抗していくべき
でしょう」(以上の引用は雑誌『アパタウン』(08年12月号、09年1月
号)。

なるほど機密公開の意図の一部はこれで了解できる。ロシア側は中国を
牽制する目的もあるのだ。そして中国はつねに真実には蓋をする癖があ
る。
 
さらに驚くべき事実がある。

第一に河本を犯人に仕立て上げるという謀略に成功したエイチンゴンは
「張作霖事件当時は北京、ハルビンに駐在、その後はトルコやスペイン
で暗躍したが、1940年のトロツキー暗殺を指揮した」。そうか、トロツ
キーも彼の部下がやったのか。
 
第二に彼は「第二次大戦後も『核スパイ』として、偽情報でアメリカ国
防省を攪乱するなど、諜報員として様々な暗躍をしている」ことが近代
史研究家らの手で明らかにされた。
 
第三に、ソ連の張作霖事件の謀略は「当時のイギリス陸軍情報部極東課
が、事件直後にソ連特務機関の犯行であるという報告書を2度にわたっ
て報告し、この報告書は2007年に公開されている」のだ。
 
中国の「南京大虐殺」なるでっち上げも最初は国民党のやとった外国人
記者の伝聞情報であり、それを政治プロパガンダとしてアメリカも利用
したプロセスを私たちは思い出す。

虚報がたちまちにして世界に流れて、嘘が固まってしまう。英米も日本
を悪者にしたてる必要があり、いまもフィリピンの「死の行進」などと
逆宣伝に懸命である。

ようやく過去十数年の研究成果によって南京大虐殺なるものが「存在し
なかった」ことが満天下に明らかになったが中国は一切の訂正をしない。

廬溝橋事件にしても、こんにちでは中国共産党が日本と蒋介石軍双方に
発砲したことが明らかになっている。

  ▼伊藤博文暗殺、ホントは誰が犯人か?

類似のパターンは伊藤博文暗殺事件である。安重根の放った弾丸は伊藤
博文にあたらず隣にいた日本人にあたった。伊藤の致命傷は背後から
(ハルビン駅の二階食堂)飛来した弾丸だった。
 
おそらく張作霖と同じパターンである。犯人は最初から仕組まれていて、
しかも犯人はそれを信じ込む。安重根が暗殺犯人でないと韓国もまた困
る。すでに安重根は英雄として教科書にも登場し、ソウルには記念館ま
でおったててしまったから。

もし、これがロシア諜報機関がしくんだもの、日本に協力者がいたとす
れば伊藤に反対した日本の政治家グループが背後にいたことになる。機
密文書が出てこないので、推定しか出来ないが、評者の推理はたぶんあ
たっているのではないか。

 

//////////////////////////////////

 

 

次は田母神関連の情報である。

 

//////////////////////////////////


http://www.apa.co.jp/appletown/pdf/taidan/1003taidan.html

 

数々の著書で「張作霖爆殺ソ連特務機関犯行説」を主張するドミトリー・プロホロフ氏と、「日本は侵略国家であったのか」で第一回「真の近現代史観」懸賞論文で最優秀賞を獲得、その後は講演や著書で真の歴史を人々に伝え続ける田母神俊雄氏が対談。ロシアの苛酷な情報統制や挑発を続ける中国の傲慢な態度など、今の東アジア情勢に関する赤裸々な情報交換が行われた。

勝者の歴史観によって侵略を判断すべきではない
田母神 来日の機会に、いろいろとお聞きしたいと思っていました。よろしくお願いします。今日12月8日は、先の大戦が始まった真珠湾攻撃の日です。

プロホロフ はい、それは知っています。

田母神 プロホロフさんは、第二次世界大戦全般を、どのように評価していますか?

プロホロフ 一般的な意見になってしまいますが、やっぱり戦争はない方が良いと思います。

田母神 日本はこの戦争に負け、連合国による東京裁判によって、侵略国家というレッテルを貼られました。この裁判での歴史観から、未だに日本は抜け出せていません。しかし私を含む多くの人間が、日本が侵略を目的として戦争を始めたのではなく、追い込まれてやむを得ず開戦に至ったという考えを持っています。プロホロフさんは、どういう見方をしていますか?

プロホロフ 国際状況というのは常に複雑なものですが、当時は特にそうでした。ドイツの国家社会主義やソ連の共産主義など、さまざまなイデオロギーに基づく社会的実験が行われており、決して平和な時代ではありませんでした。そんな中を、日本も含めて世界各国が自らの国益を求めて動いていたのです。1939年から45年までの第二次世界大戦において誰が侵略者だったかは、慎重に判断する必要があります。侵略というのは国際法上の概念ですが、どこに適用するかが難しいのです。例えば見方によってはソ連も侵略者です。1939年、ソ連はドイツとともにポーランドに侵攻し、この国を独ソで分割しています。しかし戦争が終わると、勝利した側の歴史観が適用されますから、勝者のソ連は侵略者ではなく、敗者のドイツは侵略者なのです。この文脈で、日本も敗戦国ですから、侵略者となっています。私はこの問題に接する時には、もっと別のアプローチが必要なのではと感じています。

田母神 なるほど。しかし歴史教育に関しては、どの国でも自国に誇りを感じられるように教えています。日本はアメリカの占領政策の延長で、誇りある歴史が教えられていません。これを取り戻さないと、21世紀の日本は弱体化する一方ではないかと危惧しています。プロホロフさんが発表した張作霖爆殺が日本ではなくソ連特務機関の犯行だったという説は、日本が誇りある歴史を取り戻すきっかけになると思うのですが…。

プロホロフ 歴史の見直しの問題ですね。ロシアでもソ連崩壊直後の1991年以降、いい意味での歴史の見直しが行われました。ソ連時代には議論できなかった多くの事柄について、リベラルに研究することが盛んになったのです。しかし4〜5年前から、共産主義時代への逆戻りともいえることが起こっています。歴史の見直しには、良い側面と悪い側面があります。私が行っているのは「見直し」ではなく、歴史家としての真実の追求です。張作霖爆殺事件に関しても、ロシア国民としてソ連特務機関の犯行というのは心地よいものではないのですが、これが真実だと考えたので公表したのです。

関東軍にも日本海軍にもコミンテルンの手先がいた
田母神 サンクトペテルブルクでの元谷代表との対談では、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ氏の研究がきっかけで、プロホロフさんは張作霖爆殺事件を調べたということでした。ヴォルコゴノフ氏は、プロホロフさんの特務機関時代の上司ですか?またきっかけになったのは本ですか?資料ですか?

プロホロフ 田母神さんも軍のご出身ですからわかると思いますが、ヴォルコゴノフさんとの関係は軍の機密にかかわるので、お話できないのです。ただ研究の際に、特務機関であったり防諜機関であったり官民を問わず、さまざまな人から情報をいただいたのは確かです。その中からたくさんの面白い事実を発見しました。今となっては裏付けをとるのは難しいですが、傍証から信頼に足りうる事実が数多くわかってきました。そういった情報源の一つとして、質問されたような方と接触したのは確かです。

田母神 これもひょっとしたら答えられないかもしれませんが、日本に来られるにあたって、ロシア当局から何らかの指示はありましたか?

プロホロフ これに関しては率直にお答えします。出国の許可を得る際に、私の来日に関して特務機関が興味を持っているという感触はありました。しかし正式な接触はなかったですね。ですから、こういう条件で出国を許可するとか、こういうテーマは日本で話しては駄目ということは一切ありませんでした。

田母神 数多くの本をプロホロフさんは書いていますが、どんな資料を元にしていますか?

プロホロフ 私が本に利用している資料は、すべてオープンソースのものです。以前は公文書館に入ることができましたから、そこで私が見つけて公表が許可された書類、また過去の事件の関係者の回顧録や公の機関が公開した文書などです。先人の歴史家たちの著作物から問題設定を参照することもありますし、インターネットの歴史サイトやそこからのリンクなども、とにかく利用可能なものはすべて利用しています。

田母神 日本では関東軍、海軍の中にコミンテルンのスパイがいて、内部から工作を行っていたという説があるのですが、本当でしょうか?

プロホロフ まずコミンテルンというのは特務機関ではないので、工作は行いません。各国の共産党の組織化を行うのです。戦前の日本共産党は非合法組織でしたから、コミンテルンはイデオロギー的な指導ではなく、まず日本の左派勢力の統一を行えという指示を出していました。そういう状況の中で、関東軍の将兵の何人かがコミンテルンとの関わりを持っていたことは十分に考えられます。ただ組織の決定に影響を及ぼすほどの多人数ではなかったでしょう。一方、多数の白系ロシア人がいた満州において、反革命勢力の指導者だったグレゴリー・セミョーノフの補佐官が、KGBの前身である内務人民委員部とつながっていたという情報もあります。いずれにしても、コミンテルンや特務機関と関係していた人物たちが、関東軍や白軍において大きな影響力があったということはなかったでしょう。

田母神 私は特に、日本海軍にコミンテルンの息がかかっている人がいたのではと感じています。というのも、A級戦犯として東京裁判にかけられた28人の中には、海軍出身者が一人もいないのです。真珠湾攻撃を行った海軍が、一人もA級戦犯として罪を問われない理由がわからない。首相や海軍大臣を務めた米内光政は、駐ソ連武官だった経歴があり、ロシア人との間に子どもがいるという歴史家もいます。彼も戦犯にはなっておらず、ソ連と通じていたという噂があります。海軍とソ連とのつながりはどうだったのでしょうか?

プロホロフ 海軍の中におっしゃるような人物はいたと推測されます。しかし現在、諜報に関する公文書館が公開されていないので、事実に基づいたことが言えません。かつて私は特務機関の規定を見たことがあるのですが、エージェント一人ひとりのプロフィールそのものが国家機密であり、決して公開はしないという厳密なものでした。国家が転覆するなどよっぽどのことが起きない限り、推測を裏付ける文書を得ることは難しいでしょう。


中国は傲慢な国です都合のよい歴史的事実を探してきては攻撃的にぶつけてくる
田母神 ソ連と日本とが戦ったノモンハン事件は、従来は日本がこてんぱんにやられた負け戦だとされていましたが、最近公表された資料から、五分五分もしくはソ連の方の被害が多かったということがわかってきました。しかしロシアのメドヴェージェフ大統領は、歴史解釈の見直しは許さないと主張しています。これはどういうことなのでしょうか?

プロホロフ ノモンハン事件については、軍事史の専門家ではないので詳しくはないのですが、ロシアで歴史評価の見直しが禁止されたのは事実です。これはノモンハン事件だけではなく、すべての歴史が対象。もしこれを犯した場合、歴史歪曲の罪として、刑法犯として裁かれることになります。おかしいのは、歴史の事実に基づいた歪曲の否定ではなく、単に大統領の政敵をつぶすために行われているということです。これが非常に問題です。

田母神 張作霖事件の件に戻るのですが、当時のイギリス陸軍情報部極東課は、ソ連の特務機関の仕業だという報告書を2度にわたって本国に送っています。この報告書は2007年にw0106−5750という文書番号で、ロンドンのナショナル・アーカイブという施設において公開されていて、誰もが見ることができます。イギリスがこういった報告書を本国に送っていることを、ロシアの特務機関は知っていたのでしょうか?

プロホロフ 特務機関同士の接触は、特に珍しいことではありません。1930年代においても、ソ連とドイツの特務機関が、ボーランド分割に関する情報交換を行っていたのはよく知られています。イギリス陸軍情報部もソ連の特務機関とのつながりがあったのでしょう。今でもロシアの特務機関とアメリカのCIAは、対テロ戦争で協力しています。チェチェンのテロリストに関して、アメリカからの援助が役に立ったこともあったそうです。

田母神 先程からお聞きしていると、今のロシアでは、かなり情報に関する規制が厳しくなっているようですね。あらゆる情報にアクセスできる人間というのは、いるのでしょうか?

プロホロフ 誰に対しても厳しくなっていて、その傾向はどんどん強くなっています。例えばロシア北西の都市・アルハンゲリスクの内務省公文書館の館長が逮捕されました。かつての政治的な粛清の被害者の親族が、粛清で実際に彼はどうなったかを知りたいと要請、文書閲覧の法律に従って館長は文書を公開したのですが、それにもかかわらず公開したことで彼は逮捕され、刑法犯として裁判にかけられています。そんなめちゃくちゃな状況なのです。

田母神 今中国が、経済的にも軍事的にも台頭してきています。中国が力を持ちすぎることは、ロシアにとっても好ましくないことです。中国は日本に過去の清算を求め続け、外交交渉を有利にして、日本を自国の利益に貢献させようと画策し続けています。日本が真実の歴史を取り戻して中国に対抗するために、ロシアからの歴史情報は非常に貴重なものです。これで日本が中国を牽制することは、ロシアの国益への貢献にもなると思うのです。そういった意味で、プロホロフさんには、これからも活躍して欲しいですね。

プロホロフ ありがとうございます。中国のこの10年間の動きには、目に余るものがあります。数カ月前にも、中国はロシアの国境近くで大きな軍事演習を行いました。その目的は明確ではなく、非常に不透明です。中露間には数多くの問題があります。アムール河沿いにある中国の黒河市からは、汚水がロシアに流れ込み、天然記念物のシベリアンタイガーなど付近の生態系に悪影響を与えています。何度抗議しても、止めようとしないのです。歴史に関しても中国は傲慢な国です。彼らは自分たちに都合のよい歴史的事実を探してきて、それを他国に攻撃的にぶつけてくるのです。これに対しては断固戦わないと駄目です。戦わないと止まらないのです。共通の利益がある日本とロシアが手を組んで、中国に対抗していくべきでしょう。

田母神 心強いお話で、まさにその通りです。今日はありがとうございました。

プロホロフ ありがとうございました。

 

//////////////////////////////////

 


田母神という名前を聞いただけで、読む気がしない方が多いようだが、ここに書かれたことを読んでみると、確認できたものは事実として、そうでないものは推論として語っている。
確認された事実を事実として、確認されていないものは推論として語るのは言論活動として常識的かつ当たり前の手法なのだが、それを否定することは、否定する人たちが行っている言論活動が嘘、捏造であることを自ら白状しているようなものだ。

最後に、
こういう情報が出てくる一方で、

この情報以前に出版された本により歴史を理解され、こういう情報が表面化してもそれでも日本が悪い、日本は悪いことをしたと依然信じこんでいる方々は、本当にお気の毒であり、情報は、適宜最新版に更新され、管理されない限り、役に立たない時代になったことを実感する次第である。

歴史教科書執筆者は西郷隆盛の言行を正しく書くべきだ(その1)

  • 2011.06.10 Friday
  • 16:22

JUGEMテーマ:歴史

 

 

学んだ中学、高校の歴史教科書において、西郷隆盛が登場する箇所は2箇所あったと記憶している。

一つは江戸城開城の件
もう一つは、西郷が征韓論に敗れ下野した件
である。

まず、最初に征韓論そのものについて紹介したい。

 

//////////////////////////////////
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96

 

征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」という説もある)[1]。 西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。

 名称 [編集]幕末の国学思想、尊皇攘夷思想の中で民衆レベルにまで三韓征伐神話が語られるようになり、日鮮同祖論や征韓論のベースになったとされる[2][3]。

日本書紀の神功皇后紀では高句麗新羅百済を「三韓」と呼び、国学思想においては朝鮮半島を下に見る思想があった。これに対して「朝鮮」は太古の伝説から取って李氏朝鮮が使っていた正式国号である。太古の栄光の国号を用いることは北周・宋・西夏など広く見られる現象である。そのため征韓派は好んで「征韓」を用いた。

安政五カ国条約の勅許の奏請にあたり、間部詮勝は「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる[4]。後年渋沢栄一は「韓国に対する私の考えは、三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに刺戟せられたものであろうが、兎に角朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである」と日清戦争後の対露強硬路線に同調した経緯を述べた[5]。

 

//////////////////////////////////

 

歴史教科書には、西郷隆盛が征韓論の中心人物のように書いてあるが、これを読むと、征韓論は攘夷論者が主張してきたことであって、西郷隆盛が、下野する直前において征韓論をの主張したことではないことがわかる。

続いて、西郷が「征韓論に敗れて下野した件の嘘」について、指摘したい。

 

//////////////////////////////////


http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm

(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論

(征韓論の経緯)
 いよいよ西郷隆盛最大の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。
 簡単に前述しましたが、西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。
 それでは、なぜ西郷が征韓論の巨魁と呼ばれることが歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。

 まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきた、つまり悪化してきたのかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の交際(国交)を復活させようとしたことに始まります。
 元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていた間柄でした。
 しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧力に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は日本との国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、外国と交際を始めた節操の無い日本とは交際出来ないという判断だったのでしょう。
 このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている時間がありませんでした。当時の幕府としては、国内に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。

 江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を通じて朝鮮との仲介役を務めていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。
 しかし、当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」や「奉勅」という言葉があるのを見つけ、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。朝鮮政府としては、先の「皇上」や「奉勅」といった言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。
 このように朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。
 明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送り続けましたが、朝鮮政府はその受け取りを拒否し続け、一向にらちが開きませんでした。
 明治政府は、そんな朝鮮問題を解決するべく、外務権大録の職にあった佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。
 しかし、この三人は朝鮮の首都にも入ることが出来ず、何の成果も得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。

 目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な「征韓論」を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわりました。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していません。
 この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允でした。
 後年、征韓論に反対したとされる木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかもしれませんが、これはまぎれも無い事実です。木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙の中に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
 このように当時の木戸は征韓論に熱心になっていたのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題が先にあったため、征韓論ばかりに構っているわけにはいかず、また廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立つこととなったため、木戸としては一先ず征韓論を胸中にしまう形となりました。
 しかしながら、前述した佐田白芽らは征韓論の持論を捨てず、政府の高官達になおも熱心に説いてまわったので、征韓論は人々の間で次第に熱を帯びてくることとなりました。
 明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされました。朝鮮現地においては、まさに日本と朝鮮とが一触即発の危機にあり、その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。
 こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。

(西郷の遣韓大使派遣論)
 閣議に出席した外務少輔の上野景範(うえのかげのり)は、

「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」

 と説明しました。
 その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。

「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」

 板垣はそう述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議したのです。
 しかし、その板垣の提案に当時閣議の中心人物であった西郷は首を振り、次のように述べました。

「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここはまず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす」

 西郷の主張することは、まさしく正論です。西郷は、板垣の朝鮮即時出兵策に真っ向から反対したのです。
 西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな」と言いました。
 しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ったのです。

「いいえ、兵を引き連れるのはよろしゅうありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」

 西郷の堂々たる意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良いのではないか」と主張したのです。
 その意見に西郷は、

「政府の首脳が一同に会した閣議において、国家の大事の是非を決定出来もはんじゃったら、今から正門を閉じ、政務の一切を取るのを止めたほうがよろしゅうごわす!」

 と、大隈に強く言い返しました。
 このように西郷に言われれば、大隈としてももはや異議を唱えることは出来ません。
 また、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、現在のこじれた朝鮮問題を解決出来るのは、自分しかいないとも自負し、相当の自信もあったのでしょう。
 しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。
 西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。また、この朝鮮へ派遣される使節には、大きな危険が伴う恐れがあったため、西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあれば、政府にとってこれほどの危機はありません。そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。それでも西郷はあくまでも自分を朝鮮に行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。

 これまで「征韓論」と呼ばれる一連の出来事の経過をごく簡単にですが書いてきました。
 これを読んで頂ければ分かって頂けると思いますが、西郷のどの言葉や行動にも、「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこないことが分かることでしょう。
 また、逆に「征韓論」について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
 こういった事実とは反して、西郷を征韓論者だとする人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡(西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これは全く当ての外れた推測としか言いようがありません。
 この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後「テーマ随筆」で取り上げていくつもりですので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは控えます。
 しかし、一応この後のこの征韓論争の経過だけを簡単にですが、書いてみたいと思います。

 その後、紆余曲折の過程を経て、西郷は正式に朝鮮使節の全権大使に任命されることになります。西郷としては大いに頑張るつもりでその準備を始めたのですが、ここに洋行から帰ってきた岩倉具視と大久保利通が西郷の前に立ちはだかりました。岩倉と大久保は、再び閣議を開き直し、その席上において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べたのです。
 その理由は次のようなことでした。

「西郷参議が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする余力はないので、朝鮮への使節派遣は延期するのが妥当である」

 一見すればもっともな意見に思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず殺されて戦争になるということを前提にして反対意見を展開しています。
 しかし、西郷は戦争をしないために平和的な使節を派遣したいと主張しているのです。
 西郷としては、岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べることが納得出来ません。そのため、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局は西郷の主張が通り、西郷の朝鮮への派遣が正式決定されたのです。

 しかし……、最終的には岩倉の非常に腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいます。岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとはせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上すると言い張ったのです。
 今から考えればそんな不条理なことがあるかと思われるかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。岩倉の行動を考えると、それでは今までの閣議は何のための会議だったのかと思わざるを得ません。一人の人間の私心によって、国の運命が決定づけられたのです。
 このようにして西郷が主張した遣韓大使派遣論は潰されたのです。

 最後に一つ付け加えます。
 「明治六年の政変」(いわゆる「征韓論争」)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれているものが多数を占めていますが、これはまったく事実と反します。
 まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一度も主張していません。前述したとおり、当初は板垣の主張した兵隊派遣に反対し、平和的使節を送ることを主張すらしているのです。
 また、内政を優先させるのが先決であるとして西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した大久保ですが、彼が中心となってその後した事と言えば、明治7(1874)年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌明治8(1875)年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮とも問題を引き起こしています。朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。
 西郷の使節派遣に反対し、内政の方が優先であると主張した大久保がこんなことをやってのけたのです。これをもってしても、「外征派対内治派」という構図が、いかにまやかしであったのかが分かるのではないでしょうか。
 歴史の通説において、いつの間にか西郷を征韓論者だと決め付けるようになったのは、当時西郷と対立した大久保らが自らの正当性を主張するがゆえのまやかしであったと考えるべきではないでしょうか。
 この「征韓論」に関しては、いずれ「テーマ随筆」で取り上げていきたいと思っています。

 

//////////////////////////////////

 

このサイトの記述によれば、西郷は使節を派遣する主張をしていたこと、征韓論を主張していた中心人物は、西郷ではなく、佐田や板垣であることがわかる。

その2に続く

歴史教科書執筆者は西郷隆盛の言行を正しく書くべきだ(その2)

  • 2011.06.10 Friday
  • 16:21

 

JUGEMテーマ:歴史

 

以下のメルマガからの転載。

………………………………………………………………………………
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog212.html

-----Japan On the Globe(212)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/  
          _/    人物探訪:無私の激突、征韓論〜西郷 対 大久保
       _/_/     
_/ _/_/_/         意見の純粋さだけで、かれらは国家をふたつに
_/ _/_/         割るほどの対立をしてしまったのである。
-----H13.10.21----36,172 Copies----338,381 Homepage View----

■1.西郷の遠大な防衛構想■

         朝鮮国の暴慢無礼はもはや許し難いものがある。ただち
        に出兵すべきだ。

     明治6年6月12日の閣議で、参議・板垣退助が強硬論を吐
    いた。これが誕生したばかりの明治新政府をゆるがす征韓論の
    閣議における第一声であった。
   
     明治元年以来、新政府は朝鮮に国交回復を5年以上も呼びか
    けていたが、朝鮮政府は国書の中に「皇祖」など清国皇帝が使
    う文字があると受け取りを拒否し、さらに「日本人は西洋人と
    交わって、もはや禽獣(鳥や獣)と変わるところがない」と、
    日本公館への食糧供給も拒んで国外退去を命じた。日本国内は
    これに激高していた。特に別府晋介や桐野利秋など西郷門下の
    陸軍幹部達が強硬派だった。

     西郷隆盛は板垣の強硬論を抑えて、「先に軍事行動に出るの
    はよくない。まず特命全権大使を送り、朝鮮政府と意を尽くし
    て話し合うべきだ。それでも応じなければ、議を世界に明らか
    にして出兵すべきだ」と言った。そして自分がその大使になり、
    護衛もつけずして朝鮮に行き、道理を尽くして修交と和親を求
    めようと提案した。
   
     維新の際も、西郷は幕府代表の勝海舟と差しで話し合い、無
    事に江戸城明け渡しを実現して、江戸を戦火から守った。今回
    も西郷は朝鮮の実力者、国王の実父大院君に対して、同じ方法
    で解決を図ろうとしていた。韓国と固く手を結べば、いずれ清
    国と結ばれる日も来る。そうすれば、国内の不平派も、敵は韓
    国や清国ではなく、東アジアを狙うロシアであり、欧米諸国で
    あることが分かるだろう、、、西郷の遠大な防衛構想だった。
    そのために、西郷は朝鮮や上海、満洲にまで部下を潜入させて、
    大陸の実情を探らせていた。

     三条太政大臣は戦争につながりかねない重大事なので、1年
    9ヶ月におよぶ欧米見学[a]を終えてまもなく帰朝する右大
    臣・岩倉具視を待って熟議を尽くそう、と何とか先送りにした。
   
■2.大久保の覚悟■
   
     9月13日に帰国した岩倉は、西郷が使節に発てば、かなら
    ず殺され戦争になる、そうなれば清国、ロシア、イギリスなど
    が介入してくると読んだ。しかし、西郷を止められるのは、同
    郷の畏友・大久保利通しかいない。岩倉は9月28日夜、大久
    保を訪ねて、参議就任を懇請した。
   
     岩倉とともに欧米を見てきた大久保はもとより征韓論に反対
    だった。しかし、西郷を敵に回すということは、薩摩士族を敵
    に回すということだった。たとえ西郷を論破できても、自分は
    殺される、、、。即答を避けて、岩倉を帰した後、大久保は一
    人考えた。
   
         このまま座して征韓を通すか。帝には不忠。己には怯懦。
     
     10月10日に至って、大久保はついに三条と岩倉に参議就
    任承諾を伝えた。その夜、大久保は子供たちに遺言めいたもの
    を書いた。
   
         此難に弊(たお)れて無量の天恩に報答奉らん・・・此
        難小子(自分)にあらざれば外に其任なく・・・
       
     アメリカに留学中の次男伸顕には、こう書いた。
   
         私は実によい時代にめぐりあわせた。死すともすばらし
        いことである。自分一人としては一点の思い残すこともな
        い。・・・ただ外国で自分の変を聞いて、さぞかし驚くこ
        とであろうが・・・

     大久保は新参議として、自分とともに征韓派の先鋒である外
    務卿の副島種臣も加えるように岩倉に頼んだ。征韓派にも閣議
    で十分発言させ、堂々と戦おう、との覚悟だった。

■3.両雄激突■

     新参議の大久保と副島を加えた閣議は10月14日に開かれ
    た。岩倉が冒頭で反対論を陳べた後、大久保が発言を求めた。
   
         わたしは韓国問題はしばらく延期して時期を待つべきだ
        と思う。・・・世界の情勢を考えれば、何よりもまず内治
        を整えて国力の充実をはかり、然る後に外征に及ぶのが順
        序であります。これは三歳の童子にも明らかな道理であり
        ます。
       
     「大久保、お前は!」と西郷が驚きの声を上げたが、大久保
    は続けた。新政府の基礎はまだ固まらず、地租改正や徴兵令を
    めぐる一揆が頻発している。財政も貿易も赤字で、戦争となれ
    ば国内産業は衰え、艦船や武器弾薬の輸入は増えて、国家財政
    は破綻する。英国には5百万両もの外債があるが、これが返済
    できなくなると、インドの二の舞になって独立を失いかねない
    、、、
   
     西郷が「誰も戦争を起こせとは言っておらぬ。俺は韓国には
    一兵もつれて行かぬのだ」と言うと、「君がどう思っていよう
    と、相手が拒絶すれば戦争になるのだ」と応える。西郷は怒鳴
    った。
   
         おれは今日まで、おまえを勇者だと信じていたが、いつ、
        どこで、腰を抜かして、薩摩一番の臆病者になってしまっ
        たのか!
       
     大久保は西郷の怒りをものともせずに、自説を続けた。
   
         政府の根本を画定するためには衆説にまどわされてはな
        らぬ。特に思い上がった陸海軍人どもが政府の命令を遵奉
        せずに、下士官兵士の末に至るまで粗暴軽率の行動に走り
        がちな現状においては、、、
       
         兵隊を暴走させぬために、いかにおれが苦心しているの
        か、おまえにはわからぬのか。
         
         暴徒に媚びていては、暴動を鎮めることはでき申さぬ!
       
■4.西郷が去れば■

     各参議も思い思いに発言し始めたので、収拾がつかなくなっ
    た。岩倉が三条の脇腹をついて、休息を宣言させた。大久保が
    立ち上がって、部屋を出ていく。西郷は三条と岩倉の前に行っ
    て、低く沈んだ声で言った。
   
         もし遣韓大使の議がつぶれるようなことがあったら、わ
        たしは政府にとどまることはできませぬ。辞職して故山に
        帰るつもりであります。
       
     三条と岩倉は顔色を変えた。西郷が去れば、陸軍や薩摩士族
    が黙っていない。
   
     午後の閣議もついに結論なしに終わった。外征の前にまず内
    政を整えよ、という原則には誰も異存がない。困ったことに、
    西郷は出兵も外征も唱えていない、ただ一人、丸腰で韓国に行
    き、腹を割って大院君と話し合うことが、日韓摩擦を解決し、
    征韓論に沸き立つ民心を鎮める道だと確信している。
   
     これに対して、大久保や岩倉は、大使派遣はそのまま戦争に
    つながり、ロシア、イギリスの干渉を招き寄せて、国がつぶれ
    ると主張してる。結局、先の読みの問題なので、双方に議論の
    決め手はなく、堂々めぐりをするだけだった。
   
■5.「右大臣はよくもふんばった」■

     決断を下すべき太政大臣・三条の唯一下した決断は、明日も
    閣議を続けるということだけだった。しかし、西郷は言うべき
    事は言い尽くしたとして、出席を断った。
   
     翌15日の会議では、参議の江藤新平が、大使派遣をとりや
    めても兵隊がおさまらず、結局出兵になるのだから、大使を出
    した方が懸命だと論じたて、三条と岩倉は別室で協議の上、
    「やむなく西郷の見込み通りに委す」と決した。
   
     大久保は翌朝、三条に辞表を出した。絶句する三条に追い打
    ちをかけるように、岩倉の辞表も届いた。岩倉は西郷の影に怯
    えて大使派遣に屈した自分が許せなかった。決議通り天皇への
    上奏を迫る西郷と、辞職を申し立てる岩倉・大久保の板挟みと
    なった三条は、17日深夜に昏倒して人事不省に陥った。
   
     太政大臣の代行を天皇から命ぜられた岩倉のもとに、西郷、
    板垣、副島、江藤の四参議が、桐野利秋や別府晋介など血相を
    変えた軍人を連れて押しかけた。四人の参議は、大使派遣の閣
    議決定を奏上して、勅許を得るように迫ったが、岩倉は頑とし
    て承知しなかった。「もう良い。わしはこれで御免こうむる」
    と西郷は出ていった。岩倉は見送ろうともしない。完全な決裂
    だった。岩倉邸を出るとき、西郷は「右大臣はよくもふんばっ
    た」といかにも西郷らしい冗談を言った。

■6.西郷、動かず■

     薩摩に帰ろうとする西郷に、板垣が手を握りたいと提案した。
    西郷は「ほっておいてくれ」と断った。この時点で兵を動かせ
    るのは、薩摩の外には板垣の土佐だけであった。薩摩と土佐が
    組めば、政府は明日にもひっくりかえる。そんな事をすれば、
    イギリスやロシアを喜ばせるだけだ、というのが、西郷の考え
    だった。
   
     西郷は桐野利秋ら強硬派の軍人たちと鹿児島に帰ったが、実
    弟・従道、従兄弟の大山巌はじめ、多くの薩摩出身の人材は東
    京に残った。強硬派のみを鹿児島に連れ帰って、東京を沈静化
    させたかのようである。そして鹿児島では私財を投じて私学校
    を設立し、来るべきロシアとの戦争に備えて、青年の教育にあ
    たった。
   
     翌明治7年2月、江藤新平が佐賀で反乱を起こした。江藤は
    薩摩の呼応に期待したが、西郷は立たなかった。政府軍に鎮圧
    された後、江藤は鹿児島に逃れたが、西郷に保護を断られ、逮
    捕されて、死刑に処せられた。
   
     明治9年10月熊本での神風連の乱、同月福岡での秋月の乱、
    萩の乱と、士族の反乱が相継ぐが、西郷はじっと動かず、大久
    保は一つ一つ鎮圧していった。
   
■7.「わいの体をおはんらに預け申そう」■

     明治10年1月、陸軍省が鹿児島の兵器・弾薬庫から夜陰に
    まぎれて武器や火薬を運び出すと、それをかぎつけた私学校生
    徒らが憤激し、武器弾薬を奪い取った。西郷は「しもた」と叫
    んだが、燃え上がった火はもう収まらなかった。桐野らに挙兵
    の決断を求められると、西郷は言った。「わいの体をおはんら
    に預け申そう。」
   
     2月15日、西郷軍1万5千は鹿児島を出発。「政府に尋ね
    たき儀これあり」という素っ気ない理由で、勇ましい政府批判
    の声はなかった。一挙に船で、東京、大阪に上陸すべしという
    主張も出たが、奇策として退けられた。西郷軍は愚直に熊本城
    を攻めたが、城攻めの大砲もなく、また関門海峡を渡る船の用
    意もなかった。西郷は勝利を狙っていたのだろうか?
   
     西郷軍は熊本から敗退して、鹿児島に戻り、城山に立て籠も
    った。9月24日、政府軍の一斉射撃で2発の銃弾を浴びると、
    西郷は「晋どん、もうここでよか」と別府晋介に介錯を命じた。
    享年51歳。

■8.生も死も天命■

     隆盛挙兵の報を聞いた時、大久保は座敷内をぐるぐる廻りな
    がら、「馬鹿なことを」とつぶやき、そして絶句した。目から
    ポロポロ涙を流しながら。
   
     その大久保も、翌明治11年5月14日、馬車で出勤する途
    上を士族6人の刺客に襲われ、惨殺された。生も死も天命とい
    う信念から護衛をつけていなかった。享年49歳。
   
     大久保の死後、親族が遺産を確かめたら、わずかな現金しか
    なく、逆に8千円もの借金が発見された。公共事業の予算が足
    りない分を、大久保が個人で借り受けたものであった。土地や
    建物も抵当に入っていたため、遺族は住む家さえなくなってし
    まう。政府は大久保が生前鹿児島県庁に「学校費」として寄付
    した8千円を回収し、さらに8千円を加えて計1万6千円を遺
    族に贈った。

■9.無私の激突■

     韓国近代史の第一人者・李セン(王ヘンに宣)根博士は、次
    のように語ったと伝えられる。[3,p152]
   
         これまで自分は、西郷隆盛を征韓論の親玉のように誤解
        していた。もしあの時西郷の遣韓が実現して、大院君と二
        人で腹を割って話していたら、その後の日韓関係は違った
        ものになっていたであろう。惜しいことをした。
       
     西郷の夢見た日韓中連合による欧米諸国への対抗が実現して
    いたか、あるいは、大久保の読み通り、韓国との戦争からロシ
    アやイギリスの干渉を招いて亡国に至ったか、知るよしもない。
    しかし、この点で西郷と大久保は意見を異にしていても、その
    生き様は共通だった。司馬遼太郎は次のように語ったそうであ
    る。[2,p341]
   
         征韓・内治両派の巨魁は、それぞれの意見を通すために
        死を賭していた。がこれほど小説になりにくい事件もなか
        ろう、小説になるために必要な人間現象−たとえば私利や
        私権の追求といったふうなものが、奇跡といっていいほど
        に双方の巨魁になかった。意見の純粋さだけで、かれらは
        国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。

                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(208) 地球史探訪:岩倉使節団〜サムライ達の地球一周

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 中村晃、「大久保利通」★★、PHP文庫、H9
2. 林房雄、「西郷隆盛 10」★★★、徳間文庫、S61
3. 名越二荒之助他、「日韓2000年の真実」★★★、国際企画、
   H9
  
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「無私の激突、征韓論」について 森本さんより

     留学当時、また日本の大学に在学していた頃、身近にいた韓
    国人留学生と歴史認識についてよく議論したものでした。中に
    は、日本人に対して感情的な敵対心を持っていた人もおりまし
    たが、当時の東アジアのパワーバランス、特にアヘン戦争後の
    欧米によるアジアの植民地化競争とロシアの南下の脅威に対し
    て、日本国内においては朝鮮と手を組んでロシアの南下を阻も
    うとする勢力と、朝鮮に進出することによってロシアの南下を
    阻もうとする勢力があったことを話してきました。
   
     韓国人の留学生も、日本が朝鮮に進出していなければ、朝鮮
    半島全体がロシアに蹂躙されていた可能性が極めて高かったこ
    とを理解すると、初めて冷静に議論することができ、その後良
    い友人になった人も少なくはありません。国際交流というと、
    大げさな感がありますが、個人と個人の人間関係・信頼関係の
    総和がより良い国家関係の礎となると思います。その意味では、
    歴史の結果・事象だけ見るのではなく、その背景まで理解する
    ことは極めて重要なことだと思います。
   
     今回のJOGでは、征韓派としての西郷隆盛が、武力ではな
    く、自ら単身韓国に乗り込み平和的な解決を目指していたこと
    を知り、より正確な歴史認識が必要だと再度考えさせられまし
    た。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     森本さんのような歴史対話をどしどし展開して欲しいですね。

============================================================
mag2:27705 pubzine:3562 melma!:1961 kapu:1706 macky!:1238 

………………………………………………………………………………

さて、ここでも征韓論の中心人物が別にいること、西郷は、死ぬ覚悟でただ丸腰で訪問したい意向であることが書かれている。
歴史教科書執筆者は西郷のここにある2つの発言を読んだいるのであろうか?

………………………………………………………………………………
「先に軍事行動に出るのはよくない。まず特命全権大使を送り、朝鮮政府と意を尽くして話し合うべきだ。それでも応じなければ、議を世界に明らかにして出兵すべきだ」と言った。そして自分がその大使になり、 護衛もつけずして朝鮮に行き、道理を尽くして修交と和親を求    めよう」
「誰も戦争を起こせとは言っておらぬ。俺は韓国には 一兵もつれて行かぬのだ」
………………………………………………………………………………
護衛もつけずに、交渉しようとしている人を、征韓論の中心人物だと決めてかかるのはおかしいことぐらいはわかる。

さて、視点を変えて、別のサイトを見てみたい。

http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/seikanronhihan2.htm#hayashi

このサイトは、よく文献を読んではいるが、書く前から結論を先に決めて書いていること、書いている目的が史実を調べることではなく毛利氏の批判ばかりであることが気になる。

なお、西郷隆盛は、明治新政府の参議・陸軍大将だったので、職務柄、作戦計画を策定するのは当然のことである。
職務柄作戦計画を立てたことを根拠に、西郷が征韓論者であったと決めつける論理も不自然である。

………………………………………………………………………………
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

位階は正三位。功により、継嗣の寅太郎に侯爵を賜る。

………………………………………………………………………………

そこで、歴史教科書執筆者はこういう前提で征韓論について記述すべきなのだ。

事実として明らかな前提
・征韓論は、攘夷論者の考え方としてもともと存在していた
・征韓論の中心人物は西郷ではなかった
・西郷は征韓論に敗れたのではなく、自分が韓国との交渉に韓国に赴くことを否定されたから下野したに過ぎないこと

推論される前提
・西郷は、陸軍大将としての作戦計画を立てた可能性がある
・西郷は、大久保は、一政策マターに関して、本気で政策論争をやってしまった可能性があること

西郷が西南戦争で反逆者として死んだのをいいことに、征韓論争においてまで、戦争推進論者であるかのような書き方を私は放置すべきではないし、歴史教科書執筆者は、歴史学者として事実に照らして、公開された事実と判断できることを書くべきであり、私のような市井の者に、歴史教科書の記述内容まで、添削されることは恥ずべきことであることをここで指摘させていただく。

従って、一部の教科書執筆者がこの点について、修正に応じたのは当然のことだ。

………………………………………………………………………………
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1172787712/

【歴史教科書】「西郷は征韓論」を削除 朝鮮との平和的交渉を目指した「遣韓論」も併記 鹿児島知事要請で教科書出版社(366)


1 丑幕φ ★ 2007/03/02(金) 07:21:52 ID:???0

★西郷は征韓論」を削除・鹿児島知事要請で教科書出版社

 西郷隆盛らの征韓論を記述した日本史教科書に、西郷が朝鮮との平和的交渉を
目指したとする「遣韓論」も併記するよう鹿児島県の伊藤祐一郎知事から要請を
受けた教科書出版社の一つが、「西郷は征韓論を唱えた」との記述を削除していたことが1日、
分かった。伊藤知事が県議会で自民党県議の質問に答え、明らかにした。

 記述を変更したのは、第一学習社(広島市)発行の高校向け日本史教科書。
「明治初期の外交政策」の項で、「西郷隆盛らは(中略)武力を用いてでも
開国させようとする征韓論を唱えた」との従来の記述を削除した。

 新たに「政府は(中略)朝鮮に開国を要求したが、拒否されたため、
朝鮮への非難が高まった(征韓論)」と記述。さらに「西郷隆盛らは、
1873(明治6)年、西郷を使節として朝鮮に派遣することを決定した」との
内容を加えた。

 「遣韓論」併記にまで踏み込んではいないが、伊藤知事は記述変更を歓迎、
「今後も郷土の偉人が正しく理解されるよう努めたい」と話した。

日経新聞 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070302STXKE074001032007.html

………………………………………………………………………………

さて、最後に、私の愛用の玉川百科大辞典には、429〜430頁において、私が調べた範囲で確認された事実とほぼ同じことが書いてある。

征韓論1
征韓論2

確かに、征韓論は敗れた。

そして、最後に考えてみてほしいことが二点ある。

・殺されるかもしれない状況で丸腰で護衛もつけずに、危険な国に渡航することが戦争推進論者と言えるのかどうか?
・陸軍大臣として作戦計画をたてたことが、征韓論を肯定することになるのか?戦争の可能性があるなら、戦争遂行の責任者として作戦計画を立てるのは当然の行為ではないのか?

それでも、西郷を戦争推進論者だと決めてかかるなら、アフリカ沖で自衛艦に護衛された護憲論者主催の船旅ツアーなどの護衛などやめさせていただきたい。
そして、仮に誘拐され身代金を要求されたら護憲団体自ら募金でもカンパでもやって海賊に平和憲法とやらのPRをしながら身代金交渉をやっていただきたいものだ。

 

西郷隆盛は道徳教育の必要性に気づいていた

  • 2011.06.01 Wednesday
  • 18:10

JUGEMテーマ:歴史

 

 

道徳を否定する風潮が続き、テレビの劣化に続き、若者の劣化、経営者の劣化が懸念される昨今であるが、道徳の必要性を再認識するきっかけになればと思い、南洲翁遺訓の一節に道徳に関する記述があるので紹介する。


以下は、南洲翁遺訓原文 第十六条からの引用。

 

 

//////////////////////////////////


http://www.keiten-aijin.com/ikun.html

第十六ケ条

節義(せつぎ)廉恥(れんち)を(しつ)失(うしな)ひて、国(くに)を維持(いじ)するの道決(みちけっ)して有(あ)らず、西洋(せいよう)各国(かっこく)同然(どうぜん)なり。上(うえ)に立(た)つ者下(ものした)に臨(のぞ)みて、利(り)を争(あらそ)ひ義(ぎ)を忘(わす)るる時(とき)は、下皆之(したみなこれ)に倣(なら)ひ、人心(じんしん)忽(たちま)ち財利(ざいり)に趨(はし)り、卑吝(ひりん)の情日々(じょうひび)長(ちょう)じ、節義(せつぎ)廉恥(れんち)の志操(しそう)を失(うしな)ひ、父子(ふし)兄弟(けいてい)の間(あいだ)も銭財(ぜんざい)を争(あらそ)ひ、相(あ)ひ讐視(しゅうし)するに至(いた)る也(なり)。此(かく)の如(ごと)く成(な)り行(ゆ)かば、何(なに)を以(もっ)て国家(こっか)を維(い)持(じ)す可(べ)きぞ。徳川(とくがわ)氏(し)は将士(しょうし)の猛(たけ)き心(こころ)を殺(そ)ぎて世(よ)を治(おさ)めしか共、今は昔時(せきじ)戦国(せんごく)の猛士(もうし)より、猶(なお)一層(いっそう)猛(たけ)き心(こころ)を、振(ふる)ひ起(おこ)さずば、万国(ばんこく)対峙(たいじ)は成(な)る間敷也(まじきなり)。普仏(ふふつ)の戦(いくさ)、仏国(ふつこく)三十万(さんじゅうまん)の兵(へい)三カ月の糧食(りょうしょく)有(あ)りて降(こう)伏(ふく)せ(し)しは、余(あま)り算盤(そろばん)に精(くわ)しき故(ゆえ)なりとて笑(わら)はれき。

 

道義を守り、恥を知る心を失うようなことがあれば国家を維持することは決して出来ない。西洋各国でも皆同じである。上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれに習うようになって、人の心は皆財欲にはしり、卑しくケチな心が日に日に増し、道義を守り、恥を知る心を失って親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するのである。このようになったら何をもって国を維持することが出来ようか。徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世の中を治めたが、今は昔の戦国時代の武士よりもなお一層勇猛心を奮い起さなければ、世界のあらゆる国々と対峙することは出来無いであろう。普、仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三ケ月の食糧が在ったにもかかわらず降伏したのは、余り金銭のソロバン勘定に詳しかったが為であるといって笑われた。

 

//////////////////////////////////

 

これは、西郷隆盛の口述による教えの一節である。

この時代、欧米列強が、アジア、アフリカ諸国を植民地化していた時代、道徳の重要性にいち早く気づいていた点に注目したい。

残念ながら、この国には依然、道徳を否定する教師や政治勢力が多数存在するが、これを読むと彼らの主張は亡国を意図していることがわかる。

そうは言っても、道徳教育における押し付けを私は感心しない。
道徳の必要性を認識し、それを推進しようとする者は、日々学び、日々考える努力を怠るべきではない。

とはいえ、明治時代初頭に、ヨーロッパ情勢の本質を理解した偉大な日本人が存在したことは注目すべきことである。

PR

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< June 2011 >>

フリースペース

selected entries

categories

archives

recent comment

  • 日華事変時代のハニートラップ
    masurawo (02/01)
  • 日華事変時代のハニートラップ
    たつや (02/01)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    masurawo (10/16)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    JIN (10/15)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    masurawo (10/15)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    JIN (10/14)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    masurawo (10/13)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    JIN (10/12)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    masurawo (10/09)
  • 「裏切られた自由」の日本版翻訳がなかなか発刊されなかった理由について
    JIN (10/08)

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM