関東軍参謀石原莞爾は真相を知っている?

  • 2022.05.10 Tuesday
  • 04:08

JUGEMテーマ:歴史

 

 

 

満州国建国の翌年1933年8月に発生したシモン・カスペ誘拐事件発生当時、関東軍参謀だったとされる石原莞爾がどのような職責にあったか調べてみた。

 

Wikipedeia情報ではどの役職かはっきりしない。

 

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE?msclkid=5a235e21cdd211eca0da8b6155ada107

関東軍参謀時代
石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた[5]。

昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した[6]。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。

昭和6年(1931年)満州事変を起こし[7] 、23万の張学良軍を相手に、1万数千の関東軍で満州を占領した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。さらには関東軍に代わって満州国協和会による一党独裁制を確立して関東軍から満州国を自立させることも主張していた[8]。


https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%B2%B3%E8%B1%9A%E8%A8%88%E7%94%BB_%E5%B9%B4%E8%A1%A8

河豚計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:11 UTC 版)

年表
1897年 第1回シオニスト会議開催
1918年 シベリア出兵( - 1922年6月)
1924年 安江仙弘、『世界革命之裏面』を執筆
1926年 安江仙弘、外務省に出向
1928年 安江仙弘、イギリス委任統治領パレスチナを訪問
1931年9月18日 柳条湖事件発生。満州事変勃発
1932年3月1日 満州国建国。元清朝皇帝・愛新覚羅溥儀、執政に就任
1933年8月31日 シモン・カスペ誘拐事件発生。12月3日、遺体で発見
1934年 鮎川義介、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」を発表
1934年3月1日 愛新覚羅溥儀、満州国皇帝に即位
1934年8月19日 アドルフ・ヒトラー、ドイツ総統に就任
1936年11月25日 日独防共協定締結
1937年11月6日 日独伊三国防共協定締結
1937年12月26日 ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会開催
1938年1月 安江仙弘、大連特務機関長に就任
1938年1月21日 関東軍、「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」を策定
1938年3月8日 満州・ソ連国境のオトポールで、ユダヤ難民が満州国への入国を拒否され孤立。陸軍少将樋口季一郎、救出に尽力(オトポール事件)
1938年4月 外務省、「回教及猶太問題委員会」設置
1938年12月5日 五相会議開催。翌6日、「猶太人対策要綱」を議決
1938年末 ハルビンで第2回極東ユダヤ人大会開催
1939年6月 計画書「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」策定
1939年6月 駐ベルリン満州国公使館書記官王替夫、ユダヤ難民らにビザ発給開始、1940年5月まで、発給ビザ12000通以上[6][7][8]。
1939年7月7日 計画書「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」(6月策定の計画書を改題)、政府に提出
1939年8月 上海市当局、新規難民の流入の制限開始
1939年9月1日 ドイツ軍、ポーランドに侵攻。第二次世界大戦勃発
1939年10月 安江仙弘、「猶太避難民収容地区の為の所要面積推定」の作成を満鉄調査部に指示
1939年末 ハルビンで第3回極東ユダヤ人大会開催
1940年7月22日 松岡洋右、外相に就任
1940年7月 リトアニア領事代理杉原千畝、亡命ユダヤ人らへ日本通過ビザ発給(9月5日まで)、2000通以上発給(約1500通ユダヤ系)[9]、およそ6000人救う。
1940年8月3日 ソ連、リトアニアを併合
1940年9月27日 日独伊三国軍事同盟締結
1940年9月28日 陸相東条英機、安江を大連特務機関長から解任
1941年8月 ユダヤ難民の上海移住開始
1941年12月8日 日本軍、英米に宣戦布告。太平洋戦争勃発
1942年1月19日 陸軍次官通達「時局ニ伴フ猶太人ノ取扱ニ関スル件」
1942年3月14日 1月19日付通達、及び「猶太人対策要綱」の廃止を決定

 

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「秘録石原完爾」(横山臣平)の巻末の年表を調べてみた。それによると、1933年3月帰朝、1933年8月補歩兵第四連隊長(仙台)とあるため、シモン・カスペ誘拐事件は石原完爾が左遷された後に発生したことがわかるのである。

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