オレンジ計画上の対日侵攻方針について
- 2020.08.17 Monday
- 07:04
JUGEMテーマ:歴史
「オレンジ計画 アメリカの対日侵攻50年戦略」(エドワード・ミラー)には、オレンジ計画上の対日侵攻の方針が書かれている。
該当箇所から引用転載させていただく。
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三十五年間にわたり、オレンジ・プランの根底を成す観念は、海からの上陸攻撃で島々を無力化し、同時に経済を壊滅することによって得られる勝利であった。包囲攻撃の哲学は一九〇六年の計画の最初の草稿に掛かれ、何度となく繰り返されてきた。その帰結するところは、日本への侵略は避けるべきだということであった。侵攻の必要性もなく、補給上不可能で、それによって引き起される流血と世論の反感を考えると自滅的な作戦になるというのである。
計画官たちは、米国は数年の期間を与えられれば、日本を侵略するための十分な兵と軍事物資を送り込むことが可能であると考えていた。しかし第二次世界大戦以前には、その全保有商船をもってしても、極東にわずか百万人しか維持することができず、密集した敵軍を相手に占領を勝ち取ろうにも、一回の移動で十分な兵を運ぶことも、補給を続けることもできない。
オレンジ・プランは、長期にわたる苦闘の消耗戦を企てるものだったー第二次世界大戦後、一年間の包囲期間を含めた二年間の基幹を指してこう評された。慎重派たちは中部太平洋の海軍基地を建設するだけでも二年はかかると警告していたのだ。「第二艦隊」建造の必要性を説く悲観論者らは、それは三年から四年の苦難の年月を要すると見積もった。一九四〇年、スタークは、数年間の包囲攻撃を見越し、リチャードソンは五年から十年の戦争を予測して憂いていた。計画官らはみな、長い戦争では国民の忍耐力をもきびしく試されるであろうと懸念していたが、突進派は大胆な攻撃によってそれを回避しようと努め、慎重派は落胆を誘うような初期の敗北を避けることによってそれを予防しようと考えていた。悪の独裁政権に対する聖戦という意識が、米国民に三年八か月にわたる戦争を戦わせる活力を与えるとは、誰も予測していなかった。
第二次世界大戦における最後から二番目の米国司令部決定は、日本本土の侵略の計画と準備を認めるものであった。予備段階の包囲攻撃作戦も終わり、ヨーロッパから軍隊が再配備されると、多量の兵器を送り込み、戦前の最も贅沢な見積もりすら上回るほどの輸送を必要とする侵略計画も、一九四五年末には、実行可能なひとつの選択肢としての見通しがついた。自殺的戦術を眼の前にして、日本という組織化された社会は、包囲攻撃程度では無条件に負けを認めたりはしないであろうという気の滅入るような予測が強まっていった。戦争終結の日を確実なものとしてくれる方法は、もはや侵略以外にはなかった。
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戦争方針に係わる、重要なことが書かれている。
・オレンジ・プランは、長期にわたる苦闘の消耗戦を企てるものだった
・オレンジプランとは、海からの上陸攻撃で島々を無力化し、同時に経済を壊滅することによって得られる勝利
・日本を侵略するための十分な兵と軍事物資を送り込むことは容易ではない
・一九四〇年、スタークは、数年間の包囲攻撃を見越し、リチャードソンは五年から十年の戦争を予測して憂いていた。
アメリカ側のオレンジ・プランに基づく戦争計画は、経済封鎖を前提とする五年から十年の戦争計画だったのに対し、しかし、開戦初期の日本側の方針はどうだったか?
早期講和、消耗戦を想定しない、通商破壊を重要視しない、包囲攻撃対象となる島嶼の要塞化を想定しないものであった。
ことは何を意味するのか?
戦争を準備しているにしては、対戦国の重要な戦争方針である「オレンジ・プラン」の分析、理解を怠ったと解釈しうるのである。