無邪気過ぎた日本外交
- 2020.08.12 Wednesday
- 07:44
JUGEMテーマ:歴史
「超マインドコントロール2 日本人だけが知らない!日本と日本人の凄さ」(池田整治)にて、戦前・戦中の無邪気な日本外交実態として、二つの事例解説が為されている。
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太平洋戦争時の外務大臣、東郷茂徳など、かつて、駐ソ大使時代に親交のあったモロトフ外相を通じて、あのスターリンに対米和平の仲介を依頼するほどのお人好しでした。在モスクワ大使にスターリンの心理を聞き出すように難解も訓令を発して、逆に日本側の焦りと無策を相手に読まれているのです。
東郷がそんな行動に出たのも「友人モロトフ」を信じ、「窮鳥懐に入れば漁師もこれを殺さず」という浪花節を本気で信じていたのです。
一方、最初から日本侵攻のチャンスをうかがっていたスターリンは日本の内実をそのままフランクリン・ルーズベルトに知らせていたのですから、東郷はとんだ道化者でした。
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当時の外務省は、日ソ不可侵条約締結時点で、スターリンが約束を守る人物と分析したのであろう。
次は、外交上の演技によって友好国と信じ込まされたケース。
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友好国と信じ込ませたアメリカの深慮遠謀
「こちらが好意を感じているから相手もきっと好きになってくれる」
この手放しの無邪気さは胡人が人間関係を形成するには必須の要素でしょうが、国益を追求しなければならない立場の人間が振り回すと致命傷になります。海千山千の相手を向こうに回して、友情や親密さに依存した瞬間、相手の思うつぼになってしまいます。相手の戦術の第一歩は好感をもってもらうことだからです。好感が信頼につながり、信頼が「ここだけの話」をつかむチャンスに発展するからです。好感を覚えさせることこそ、パンドラの箱をこじ開ける大きな武器なのです。
太平洋戦争における日本政府の最大の失敗はアメリカに心を許してしまったことにあります。その根本的なミスが四年後に人類発の原爆を二度投下されることにつながるのです。
実は、アメリカは日清戦争のときから満州を狙っていました。なんとか、日本から奪い取りたいと常にチャンスを伺っていたのです。
アメリカの台所事情は、米西戦争のために植民地獲得競争に乗り遅れてしまい、めぼしいところはほとんどイギリス、フランス、ロシア、ドイツなどに奪われていたのです。米西戦争(一八九八年)でスペインから奪ったのはフイリピン、グアム、プエルトリコでした。どうしても中国を手に入れたいと考えるアメリカは、国務長官ジョン・ヘイが中国の「門戸開放」「機会均等」「領土保全」という三原則を列強に主張して、必死に巻き返しを図らせます。
アメリカにとって、中国から強力なライバルが離れてくれれば御の字。だから、日露戦争でも日本を応援したわけです。
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日露戦争後、アメリカの艦隊が日本を訪問したことがあった。日本は熱狂的に歓迎したとされる。
アメリカ政府は困惑したことであろう。
ともすれば、日本人は、外国に行くと無防備になる傾向がある。外国人の儀礼上の挨拶が、友好、親日のシグナルと勘違いしやすく、その傾向は明治時代から続いているということなのであろう。