広田弘毅元首相が戦犯指定された背景について

  • 2015.12.17 Thursday
  • 18:35

「落日燃ゆ」(城山三郎)の小説などで悲劇の主人公として描かれることが多い、元首相広田弘毅について、なぜA級戦犯指定を受け、処刑されなければならなかったのか、 完璧と言えない可能性はあるものの、広田弘毅元首相が、戦犯指定を受けた背景について考察を行った。

まず言えそうなことは、名門の出ではない関係で、守ってくれる後ろ盾が見つかりにくいことである。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85

昭和天皇は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身でないのはもとより、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時の日本は業績主義が徹底し、出自に関わらず軍学校を経て高級軍人や帝国大学を経て高等文官への道が開かれていた[注釈 2]。

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つまり、訴追したい人が、不足する場合、理屈をこじつけて、戦犯指定として。選ばれやすいことを意味する。

次に、言えそうなのは

蒋介石が昭和天皇を戦犯リストから外すことに併せ、その代わりを誰かに代替させたいと考えた可能性があることだ。

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http://www.jiji.com/jc/zc?k=201508/2015080200070

戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止−蒋介石が早期決定・中国

  1945年6月に中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リスト。トップに「日皇裕仁」(昭和天皇)と記載されている  日本との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日本戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。

昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す−日米文書で判明

 時事通信が中華民国の外交文書を公開する台湾の「国史館」や国民党史料を所蔵した「党史館」で入手した複数の戦犯リストや内部文書のほか、「蒋介石日記」の記述で判明した。  国民政府は終戦前から、戦犯リスト策定に着手しており、45年6月に軍令部が「侵戦(侵略戦争)以来敵国主要罪犯(犯罪人)調査票」を作成。戦犯トップに「陸海空軍大元帥」として「日皇裕仁」を掲げ、「侵略戦争の主犯・元凶」と明記した。日本の軍国主義による侵略の根源が天皇にあるとの見方は中国で根強く、議会に相当する民意機関「国民参政会」も7月17日、「天皇を戦争犯罪人に指名する」決議を可決した。  これに対して蒋介石は「日記」で9月21日、「当面の急務」として「戦争犯罪人(決定)」を挙げ、10月8日には「外交急務」として「日本軍戦争犯罪人の決定」と記した。同月14日に東条英機(元首相)ら12人を「特務工作の悪事を尽くした」として戦犯指定した。「日記」からは蒋介石の意向が選定に反映されていたことが分かり、9月の戦犯リストから天皇の名前は除外されていた。  蒋介石が「戦争犯罪人決定」を「急務」とした10月8日、国民参政会の決議に対し、戦犯問題を調査した司法行政部と外交部は天皇の戦犯認定について「蒋主席とトルーマン米大統領が、日皇の運命は日本の民意が自ら選択すべきであると共に表明した」と否定的な方向に傾いた。また当初、天皇を戦犯リストに掲げた軍令部は「皇室は将来的に日本の侵略国策を復活させる源泉だ」としつつ、「同盟国(連合国)によるポツダム宣言の円滑な命令執行と、共産主義勢力拡大の防止」のため、天皇免訴が必要だと方向転換した。  最終的には蒋介石の統括する国防最高委員会が45年12月28日、「日本問題処理の意見書」を決定。「同盟国の誤解と日本人の反感を回避」するため、「天皇と天皇制存廃の問題は、原則として同盟国の共同意見に従い処理する」との方針を確定した。  蒋介石政権は46年5月からの極東国際軍事裁判(東京裁判)に向け、東条ら計32人の戦犯リストを2回に分けて連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。

◇中国が指定した日本人戦犯  【第1次(1945年10月)】 ▽土肥原賢二(奉天特務機関長)★▽谷寿夫(第6師団長)▽橋本欣五郎(陸軍大佐)★▽板垣征四郎(陸相)★▽畑俊六(中国派遣軍総司令官)★▽東条英機(陸相・首相)★▽影佐禎昭(中国派遣軍総司令部付)▽酒井隆(第23軍司令官)ら11人  【第2次(46年1月)】 ▽南次郎(陸相)★▽荒木貞夫(陸相・文相)★▽平沼騏一郎(首相)★▽阿部信行(首相)▽米内光政(海相・首相)▽小磯国昭(首相)★▽嶋田繁太郎(海相)★▽広田弘毅(外相・首相)★▽松岡洋右(外相)★▽東郷茂徳(外相)★▽梅津美治郎(関東軍総司令官)★▽松井石根(上海派遣軍司令官)★▽寺内寿一(陸相)▽牟田口廉也(第18師団長)ら21人 (注)★は極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴。(2015/08/02-18:40)

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さらに、言えそうなのは、東京裁判の戦犯指定に関して、昭和天皇の訴追を避けるという理由から、東条英機元首相に全責任を負わせるという、方針がGHQの、それもマッカーサーの腹心から示されたことである。

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「河合道とボナー・フェラーズ  陛下をお救いなさいまし」(岡本嗣郎)

 275頁

 天皇制の存続は戦争放棄条項と引き替えだった。不戦・平和主義の宣言が象徴天皇制を可能にした。日本政府がこれを受け入れ、憲法改正草案要綱として正式に発表したのは三月六日だった。 フェラーズが元首相・米内光政を総司令部に呼び、ひそかに「東条に戦争の全責任を負わせよ」と指示した日である。  一九四六年七月二十三日、フェラーズは日本を去った。再就職先は、アメリカ海外退役軍人協会だった。翌年十一月、共和党全国委員会副委員長に転身している。

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その指示を受けたのが、終戦時海軍大臣であり、元首相だった米内光政である。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%BE%A9%E5%93%A1%E7%9C%81

第二復員省

1945年(昭和20年)12月1日付を以て海軍省が廃止され、第二復員省が設置された。「第二復員省官制」(昭和20年勅令第680号)に基き設置され、「第一復員省官制の廃止等に関する勅令」(昭和21年勅令第314号)によって廃止された。第二復員省資料整理部(旧軍令部第一部作戦課が中心)では海軍再建の研究も行われ[1]、それらの出身者は海上保安庁から海上警備隊を経て海上自衛隊の創設へと貢献した。

極東国際軍事裁判対策

極東国際軍事裁判では、旧海軍軍令部出身者の豊田隈雄元大佐らを中心に昭和天皇への訴追回避、旧海軍幹部への量刑減刑に秘密裏に奔走した。 裁判開廷の半年前には、永野修身元帥以下の海軍トップを集めて、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行い、米内光政をGHQ側と折衝させるなどの工作を行った。そうした結果、昭和21年3月6日にはGHQのボナー・フェラーズ(英語版)准将から米内に対して、天皇免責のために裁判では日本側が証言をするなどの努力が欲しいこと、陸軍に開戦の責任の大部があるなど、裁判についての内々の回答を得たという。

また、BC級戦犯裁判においては、中央への責任問題の波及を避けるため、現地司令官レベルで責任を完結させる弁護方針を立てて証人を隠すなどの工作も行っている

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また、米内光政は、旧海軍幹部への量刑嘆願に関与していたようであり、そのための想定問答集が存在したとされる。

米内は、広田弘毅が無実かどうかではなく、旧海軍幹部が無傷で済むことを優先したであろうことは想像に難くない。

その米内光政内閣は、陸軍による謀略的措置で短命に終わったとされる。しかし、米内内閣は、昭和天皇の要望であったとされる。

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米内光政

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF

1940年(昭和15)1月16日、第37代内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ナチス・ドイツはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。

陸軍と米内の関係は最初からうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は陸軍大臣・畑俊六を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた[注 1][注 2]。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、石渡荘太郎に語っている。

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どうやら、昭和天皇の本心は、陸軍ではなく、海軍指向だったようである。

こういう経緯を知ると、米内内閣の倒閣に直接、間接に関与した者たちは、海軍にとって、東京裁判の場を借りて復讐したい動機があり、そのために、上記想定問答集がつくられ、GHQ幹部との水面下の折衝が行われ、GHQ幹部による陸軍責任論へと繋がるのである。

そして、戦争を避けるために?米内光政を要望した昭和天皇は、米内光政の戦後の動きを黙認し、同時に、米内内閣倒閣に間接的に係わった者たちの存在は、戦後処理として避けられないと認識したかもしれない。

さて、米内内閣を間接的に倒閣させた制度とは、軍部大臣現役武官制であるとする指摘があり、その制度は、広田弘毅内閣時代に発足したことが確認されている。

軍部大臣現役武官制 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6

その、軍部大臣現役武官制を復活させた広田弘毅内閣は、その制度によって崩壊させられている。そして、軍部大臣現役武官制の弊害が、相次いで確認されている。

陸軍による政界圧力は日に日に高まり、その原因をつくったのは軍部大臣現役武官制を復活させた広田内閣という、海軍想定問答集的視点(実際に読んだことはないが)でみた、海軍に都合良いシナリオに結びつくのである。

こう考えると、東京裁判は、海軍による陸軍に対する復讐裁判という性格を帯びているかもしれない。

本稿はとりあえずの作文である。これが真相なのかどうか、引き続き検討を続けることは言うまでもない。

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