山本五十六の検死 不審な点があるようです。
- 2015.12.15 Tuesday
- 06:18
JUGEMテーマ:歴史
山本五十六の検死に立ち会った関係者の証言等によれば、その死体について、不審な点があるとの指摘がある。 目撃者証言は、その当事者の素行、言動において、問題なく、隠蔽・改竄等の意図がないものと認められる限りにおいて、第三者、たとえば戦史叢書作成者よりも確度が高い情報として位置付けられる性格のものである。
すなわち、目撃者証言は一次史料、第三者による検証は二次史料という位置づけである。 おそらく、戦史叢書では、当該目撃者証言を難癖をつけて全面否定しているに違いない。
一方で、戦中時代、参謀職等にあって、数々の情報隠蔽工作に係わった可能性のある者たちが、自ら係わった行為について、自ら告白しない人たちが、戦後書いたものが、果たして大丈夫なのか?という見方ができるのだ。
時間的制約から、この分野に今すぐ深入りする余裕はないが、不可解な事案として記憶しておく必要はあるだろう。
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http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/457.html
山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。 大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。 ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。 「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」 同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。 にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。
山本五十六の真実? 『山本五十六は生きていた』 再検証
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/457.html
山本五十六の怪死の謎(1/2)
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/386574435.html
山本五十六の怪死の謎(2/2)
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/386661800.html
山本五十六元帥怪死の謎
http://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/301/301851215.pdf
山本五十六がアメリカのP38戦闘機に攻撃され戦死した時に同乗していた人の名前を知りたい。 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076950