歴史が始まるときはその国によって異なる

  • 2017.10.29 Sunday
  • 06:33

「新たな反日包囲網を撃破する日本」(渡部昇一)によると、歴史が始まる時はその国によって異なるとしている。31頁から転載する。

////////////////////////////////// われわれ日本人は、歴史というと、きわめて古い時代からはじまると考えます。卑弥呼の時代、いや、その前の弥生時代、縄文時代…………とさかのぼって考えます。 ところが、歴史がどこからはじまるかというのは、じつは国によってかなり異なっているのです。 たとえば、スイスで育った私の孫娘は昨年ジュネーブ大学に入りました。歴史学の専攻ですが、では、スイスの歴史の教科書がどこからはじまるかというと、「フランス革命(一七八九年)からだ」といいます。スイスですから、古代ギリシャやローマからはじまるのかと思っていたら、そうではない。フランス革命からはじまるというのです。 このように歴史というのはその国によってはじまる時代がまるっきり違うのです。 アメリカ人にとっての「歴史のはじまり」は、ビルグリム・ファーザーズが「メイフラワー号」で新大陸に到着した一六二○年か、独立宣言が発せられた一七七六年でしょう。アフリカ系のアメリカ人にとっては、イギリスかバージニア植民地に黒人奴隷を入植させた十七世紀初頭にさかのぼるかもしれません。同じアメリカ人でも人種によって歴史の起源が異なるわけです。

//////////////////////////////////

マレーシアの歴史教科書が、国史の始まりが、昭和16(1941)年12月8日の日本陸軍のコタバル上陸だったことは、知られていないのは残念なことだ。

マレーシアの歴史教科書に書いてあること  http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-416.html

日光の杉並木  世界で最も長い並木道だと学校で教えなくていいのか?

  • 2017.10.15 Sunday
  • 19:32

学校教育の現場において、日本は悪い国だ、日本という国はなくなった方がいい。日本は歴史認識問題で謝罪し中共に支配されるべきだ、みたいな思想をお持ちの方が教師の大半であるように私は思っている。

たとえ、ギネスブックに載るようなことでも、学校教科書には決して書かない、書かせないという変な配慮がそこにはあるような気がする。

彼ら教師にとっては、生徒が日本好き、生徒が愛国者になるのはとても困ることのようである。

それゆえ、私は、学校教員については、徹底的に軽蔑するか距離を置いて眺めている。

たとえば、日光杉並木、「日本史の中の世界一」という本によれば世界一長い並木道だと書いてある。

それを裏付ける情報もある。

並木道の長さ、日本一、いや世界一! http://nikkofan.jp/topics/topics.php?id=154

世界最長の並木道「日光杉並木」を踏破したかった - デイリーポータル http://portal.nifty.com/kiji/131022162135_1.htm

世界一長い並木道、日光杉並木 https://www.youtube.com/watch?v=bVWgMHs7wuo

30ほど前に観光バスで杉並木を二度ほど通過したことはあるが、こういう大規模な並木が存在することは、地理の教科書に書かれてしかるべきであろうと思う。

地理の教科書執筆者の発想の転換を促したいところである。

あなたは「日本史の中の世界一」をいくつ知っているか?

  • 2017.10.09 Monday
  • 18:45

歴史教科書副読本のネタにぴったりな本が存在することを知った。 その名はズバリ「日本史の中の世界一」(田中英道編集、育鵬社)である。

項目は、全部で50。 最初の10項目はこうなっている。

1.世界最古の土器ー縄文土器 2.世界最古の庭園ー千居・縄文遺跡 3.八百万の神々の国・日本 4.古代の超高層建築・出雲大社 5.世界最大規模の古墳ー仁徳天皇陵 6.世界最古の老舗ー金剛組 7.聖徳太子の「和」の思想 8.世界最古の木造建築ー法隆寺 9.世界最古の印刷物ー百万塔陀羅尼経(法隆寺) 10.伊勢神宮の式年遷宮ー永遠なる今

歴史教科書の最初が、魏志倭人伝から始まっている印象があるが、歴史教科書執筆者たちは、書くべきことを勘違いしているのではないだろうか? 渡部昇一が「渡部昇一の少年日本史」で書いたように、日本人にしか見えない日本史の虹が何であるのか?それをもう一度確認し直す必要があるように思うのである。

以下は参考情報

http://blog.jog-net.jp/201706/article_2.html

No.1009 「和の国」日本の世界一 〜 田中英道『日本史の中の世界一』から <<   作成日時 : 2017/06/11 05:49   >>  なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 5 / トラックバック 0 / コメント 0  日本史の中には数々の世界一があるが、その多くは国民が志と力を合わせて成し遂げたものである。

■転送歓迎■ H29.06.11 ■ 50,928 Copies ■ 4,368,897Views■

■1.日本になぜこんなに世界一の事績があるのか

 日本列島は世界の陸地面積のわずか0.2%、それもユーラシア大陸の片隅だ。そこに住んでいる日本人は世界人口の約1.7%に過ぎない。それなのに、なぜこんなに世界一が沢山あるのか。これが『日本史の中の世界一』[1]を読んで、まず感じた疑問であった。

 この本には世界最古の土器から戦後の高度成長まで、世界一と言える日本の事跡が50も紹介されている。それも単にそれらを並べただけではなく、美術史の世界的大家・田中英道・東北大学名誉教授が編集し、各分野での著名な専門家がその背景に至るまで具体的に説明しているので、それらを生み出した国柄に関する卓越した日本論となっている。

 その国柄の一つとして、特に目立つのは、天才な個人が現れて世界一を作り出したというよりも(もちろんそのような事例もあるが)、多くの国民が参加してその力を寄せ集めてなし遂げた事例が非常に多い、ということである。

■2.式年遷宮というシステムの独創性

 たとえば伊勢の神宮の20年ごとの式年遷宮。各神殿が二つ並んだ敷地を持ち、ひとつの神殿が20年経って古びた頃、隣の敷地に全く新しい神殿が建てられて、神はそちらに遷られる。第一回の式年遷宮は持統天皇4(690)年に行われたが、その時点では、世界最古の木造建築物として今も残る法隆寺は建立されていた。

__________  そのような高度な建築技術を持っていたにもかかわらず、飛鳥時代の先人たちは、その“最先端”の技術を、伊勢神宮の建築には用いていない。

 その代わりに、すぐに朽ち果てる弥生時代の倉庫さながらの神殿を、二十年ごとに建て替えるという“神殿のリメイク・システム”を考案したのである。[1, p59]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 このシステムにより、神宮は古びることなく、1300年以上も後の現代においても真新しいままでいる。

__________  この式年遷宮というシステムの独創性に、私は驚くほかない。しかし、そのシステムが、はるか千三百年の時を超え、二十一世紀の今日まで“生きている”ことは、さらなる驚きである。世界史上、このような信仰に基づく、このようなシステムが、このように長く続いている例は他にない。[1, p61]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに驚くべきは、この建て替えが内宮と外宮という二つの「正宮」だけでなく、14の別宮と、109の摂社、末社、所管社、すなわち合計百二十五の神社すべてで行われる、ということである。しかも建物だけでなく、「御装束」(神様の衣服)や「御神宝」(お使いになる道具)も約800種、2500点をすべて2千数百人の職人が長い歳月をかけて作り直す。

■3.無数の多くの代々の国民が、力を合わせて続けてきた

 御遷宮には1万本以上のヒノキが使われるが、それらは木曽地方などの神宮備林で育てられる。樹齢2、3百年の用材を大量に育てるための人々がおり、用材を切り出す際には神事が行われる。

 切り出された用材は直径1メートル近く、長さ数メートルのものもある。それらを奉曳車に乗せて、長さ100-500mの綱を200-5,000名の曳き手が掛け声に従って引く「御木曳(おきびき)」という行事もある。

 平成18(2006)年から翌年にかけて行われた第62回御遷宮の御木曳行事には一日神領民という希望者が約7万7千人も参加した。筆者は沿道でその行事を見学したが、日本全国から集まった人々が,地域ごとに揃いの法被(はっぴ)を着て、いかにも楽しそうに掛け声に合わせて綱を引っ張っていた。

画像

 この第62回目御遷宮の総費用は550億円という。神宮を参拝した人々のお賽銭や、篤志家・企業などからの寄付、さらには全国の神社での神宮大麻(おふだ)の販売などによってまかなわれている。いわば国民の多くが御遷宮を支えているとも言えるのである。

 このような大規模な御遷宮が過去1300年以上、62回も続けられてきたという事は驚くべき事実である。御遷宮は「続いてきた」のではない。我が先人たち、それも無数の代々の国民が力を合わせて「続けてきた」のである。その努力こそ世界唯一というべきであろう。[a]

■4.のべ260万余人が参加した奈良の大仏建立

 国民参加という点では、天平勝宝4(752)年に完成した世界最大のブロンズ像・奈良の大仏も同様である。大仏建立を志された聖武天皇は詔(みことのり)を出されて、「生きとし生けるものがことごとく栄えることを望む」と語られた。しかし、単に国家権力をもって人民を使役したのでは、その志は果たせない。

__________  ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしり(悪くいうこと)を生じて、かえって罪に陥ることを恐れる。・・・国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵(おか)し、乱したり、無理に物資を取りたてたりすることがあってはならぬ。[1, p75]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この詔は現実の政策によって実行された。造仏に従事した木工、仏師、銅工、鉄工などの技術者ばかりでなく、人夫、雑役夫などの雇人にも、賃金と食米が支給された。現場の重労働に従事する工人には、一日約8合の玄米が炊かれ、塩・味噌・醤油・酢・海藻・漬物・野菜・木の実等が副食として出された。

 工事に従事した延べ人数は、金知識(鋳造関係の技術者)が37万2075人、役夫(えきふ)が51万4902人、材木知識が5万1590人、役夫が166万5071人と合計260万余人。当時の日本の推定人口は約500万人だから、そのかなりの割合の国民が参加したわけである。[2]

 事業に参加する人々には賃金や食事を支給するばかりでは無い。聖武天皇は一人ひとりがこの事業の趣旨をよく理解し、それに主体的に参加することを期待された。詔にはこうも言われている。

__________  もし更に人の一枝の草、一把(ひとにぎり)の土を持って、像を助け造らんことを情願(ねがう)あらば、恣(まま)にこれを許せ。

 もし人民が寄進したいというのであれば、どんなにわずかの寄進でもよろこんで受けよう。わたしは国民とともにこの大事業をなしとげたいからだ。[c]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大仏の建立に参加した一般人民は国家権力者に使役された奴隷だったと考えるのは過ちである。またこれらの人々がすべて賃金や食事目当てだった、と考えるのも表面的に見える。ちょうど現代の御遷宮に多くの国民がボランティア参加しているように、当時の人々は聖武天皇が国民全体の幸福を祈って発願された事業に参加できる誇りと喜びを感じていたのではないか。

■5.「百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて」

 多くの国民が喜んで国家的巨大事業に参画するというのは、仁徳天皇陵の築造においても見られたようだ。

__________  この「前方後円墳」と呼ばれる古墳は、全長が486メートル、円の部分は高さ34メートルもある。取り囲む二重の濠まで含めた総面積は34万5,480平方メートルであり、秦の始皇帝の底面積11万5,600平方メートルの三倍、エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの底面積5万2,900平方メートルの六倍以上だ。大きさだけでなく、その全体の形態は中国にも朝鮮にも前例のない美しい形態である。[1, p34]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ある試算によれば、これだけの土を更地に盛り上げるためには10トンのダンプカーで25万台分の運搬が必要であり、これを全て人力で行うためには延べ680万人が必要という。

 仁徳天皇は「民のかまど」の逸話で日本書紀などに聖帝として描かれている。高台から国を望まれて、かまどから煙が見えないことから、民が不作で窮乏しているのであろうと考えられ、税を免じた。宮殿の茅葦屋根が破れても修理させず、風雨で衣服が濡れる有様だった。6年の後、ようやく天皇が宮殿修理の許可を出されると:

__________ 百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて、材料を運び、簣(こ)を背負って、昼夜を問わずに、力を尽くして競いつくった。従って、あまり日数がかからないで、宮室がことごとく完成した。そこでいまに至るまで、聖帝とたたえ申し上げるのである。[1, p36]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 仁徳天皇が崩御された際も、多くの民が天皇の聖徳を偲んで、このような形で力を合わせてて陵を造営したものと想像しうる。

■6.国民による国民のための詩集

 多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、巨大建造物に限らない。世界最古、最大の選詩集『万葉集』もその一つである。4,516首と言う規模で世界最大であり、かつ、7,8世紀の歌を集めている。

 規模や古さだけではなく、万葉集が特徴的なのは天皇から庶民ままでほとんどあらゆる階層を含んでいることである。

__________  アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は・・・天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、その題材の豊富なことは、詩集として世界でも稀なことであると述べている。

作者も宮宮廷の詩人だけでなく、防人(さきもり)の歌や東人の歌、農民、遊行女婦、乞食まで多様な階層の歌が選ばれているのである。いかに階層に対する偏見がないか、また平等な世界であったかがよくわかる。[1, p84]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋やシナの詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、まさに国民による国民のための詩集であった[d]。この和歌の伝統は、現代の日本でも皇室を中心に中学生から老人まで数万の短歌を集める「歌会始め」に連なっている。[e]

■7.国を挙げて取り組んだ教育水準の向上

 幅広い国民参加による世界レベルの偉業達成というパターンは近現代でも続いている。江戸時代の教育水準の高さはその一つである。

__________  トロイの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者シュリーマン(1822〜1890)は、トロイ発掘の六年前の1865年に旅行者として日本を訪れ、一カ月の間、江戸、横浜などに滞在しているが、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。

シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と旅行記のなかで書いている。[1, p185]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この世界一の教育水準は、日本各地に無数に設置された藩校、私塾、寺子屋によって達成された。藩校の最初は、元禄10(1697)年に米沢藩が設立した興譲館だが、その後、全国に広がり、幕末までに約260のすべての藩が、規模や形態の差はあれ、藩校を設置している[1, p38]。

 私塾は寛文2(1662)年に、伊藤仁斎が京都に古義堂を開設して以来、様々な専門分野で広がり、幕末には全国で1500もあったといわれている。

 寺子屋は農民や町民の子供たちにお坊さんや神主、町のご隠居や武士などが教えていた。幕末には全国で1万から1万5千もあった。現代日本の小学校数約2万に匹敵する規模の初等教育が行われていたことになる。

 藩校を運営した各藩主から、私塾を経営した各分野の専門学者、さらには寺子屋で教えるご隠居さんまで、国民の各層がそれぞれに人づくりの志を持って取り組んだ結果が、世界一の教育水準なのである。

■8.「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」

『日本史のなかの世界一』には、このほかにも「江戸時代、268年間の安寧」「日本の花火の豪華さ美しさ」「パーフエクト・ゲームとなった日本海海戦」「戦後日本、奇跡の復興と高度経済成長」「自然環境との調和、森林の保存の歴史」と、興味深い世界一が次々と紹介されていくが、これらも無数の国民が力を合わせて実現したものである。

 その最後を飾るのが「世界最長の王朝、万世一系の天皇」で、皇室が2千年以上も続いてきたこと自体が世界史の奇跡なのだが、その陰にあって皇室を支えてきた無数の先人たちがいたことを忘れてはならない。

「和をもって尊しとす」とは、聖徳太子の17条憲法の第一条冒頭の一節だが、これは単に「仲良くしなさい」という意味ではない。第一条は、上下和睦して事を議論する時は、物事の道理が自ずから通うので、「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」という強い信念で結ばれている。

 世界の陸地面積の0.2%でしかない日本列島に住む、世界人口のわずか約1.7%の日本人が、これだけの世界一を成し遂げたことを見れば、人々の「和」によって「できない事などあろうか」と断言された太子の確信の正しさが史実として証明されている、と思えるのである。 (文責:伊勢雅臣)

中学歴史教科書における教育勅語の扱われ方

  • 2017.04.12 Wednesday
  • 02:11
百人の会からの情報です。 ▼ここから本題デス!▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼拡散、転送ヨロシク!▼▼▼ 京の空花正人です 内容は再掲する部分もありますが、最新の政府見解や中学校教科書での扱われ方を今回付加してお知らせします。 籠池・森友学園事件は、何とも不愉快でけしからぬ事件であった。 教育勅語を禍々しいものとして日本全国に流布させた責任を問いたい。 マスメディアが挙ってこのときとばかりに教育勅語を非難し罵倒している。 文科省OBの寺脇研氏はテレビ朝日で連日のように繰り返し「教育基本法違反」であると垂れ流している。 忠君愛国、戦争賛美と勝手に解釈し、大騒ぎしている。 政府見解が遅ればせながら出されたが、分かりにくい表現である。 「憲法や教育基本法に反しないような形」とは何を意味するのか曖昧である。 忖度するに、部分的にとはいえ美化したり、児童生徒に唱和させたりしてはいけないということか。 >(朝日新聞記事 3月31日) 政府は31日、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、 「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」としたうえで、 「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」 との答弁書を閣議決定した。民進党の初鹿明博衆院議員の質問主意書に答えた。  勅語については、太平洋戦争後の1948年、衆参両院が排除・失効の確認を決議している。  また、稲田朋美防衛相が国会答弁で「親孝行や友達を大切にするとか、 そういう(勅語の)核の部分は今も大切なもの」と述べたことの是非について、 答弁書は「政治家個人としての見解」とし、政府としての見解を示さなかった。 *************** そもそも教育勅語になんにも瑕疵はない。 下記文献を見ていただければ、その由来、内容の正しさ、戦後の失効経緯がわかっていただけよう。 空花正人 教育勅語 中学校歴史教科書はどのように扱われているか。 歴史的事実がバランスよく書かれている自由社、育鵬社に引き比べ、嫌みな印象操作で書かれたものや、「忠君愛国」と決めつけ否定的な扱いをするものが多い。 (空花まとめ) (1)自由社 第4章3節「立憲国家と日清・日露戦争」 単元60【大日本帝国憲法と立憲国家】 ■教育勅語の発布  同年、議会の召集に先立ち、天皇の名によって「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発布された。これは、父母への孝行、学問や公共心の大切さ、そして非常時には国のために尽くす姿勢など、国民としての心得を説いた教えで、1945(昭和20)年の終戦にいたるまで、各学校で用いられ、近代日本人の生き方に大き影響をあたえた。 (187頁) 側注欄 教育勅語  明治になって、旧来の道徳と新たな道徳が入り交じり、道徳のあり方が混乱した。そこで、国民の指針となるよう、14の徳目を天皇の言葉として短くまとめたものである。学校の儀式で読み上げられた。また、多くの言語に翻訳され、海外にも知られた。  (187頁) (2)育鵬社 第4章3節「アジア最初の立憲国家・日本」 単元55【大日本帝国憲法の制定と帝国議会】 ■教育勅語の発布  急激な欧米文化の流入にともない、教育界では日本の伝統的な考え方を軽視する動きも生まれ、教育の現場に混乱が生じていました。これに危機感をもった地方長官らの提案をもとに、1890(明治23)年、明治天皇によって教育の指針を示した教育勅語(教育ニ関スル勅語)が出されました。  教育勅語は、親への孝行や友人どうしの信義、法を重んじることの大切さなどを説きました。また、国民の務めとして、それぞれの立場で国や社会のためにつくすべきことなどを示し、その後の国民道徳の基盤となりました。 (185頁) 側注欄に「教育勅語」の訳 (185頁) (3)学び舎 第4部第7章「近代国家へと歩む日本」 単元8【天皇主権の憲法―立憲国家の成立―】 小コラム【教育勅語と「御真影」】  子どもたちが、講堂に整列して「君が代」を斉唱する。校長は礼服に白手袋で、桐の箱から巻き物を取り出す。子どもたちは深々とおじぎをし、そのまま頭をたれている。校長が厳かな口調で、読み始める。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・」。正面には、天皇と皇后の「御真影」が掲げられている。「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ・・・一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮の皇運ヲ扶翼スヘシ」。最後に、「御名御璽」と読み終えると、子どもたちはほっとして、鼻をすすりながら頭を上げる。  1890年、政府は、明治天皇の名で教育勅語を出し、全国の学校で、こうした儀式を行わせた。内村鑑三は、深くおじぎをしなかったと非難され、教師をやめさせられた。1896年、三陸海岸を襲った大津波で、2万人以上が死亡した。岩手県の小学校教師・栃内泰吉は、天皇の写真を運び出すために学校にかけつけ、大波にさらわれて死亡した。火事や災害に備えて、学校では教師が宿直するようになった。 (4)東京書籍 第5章2節「明治維新」 単元7【立憲制国家の成立】 ■立憲制国家の成立  また、憲法発布の翌年には教育勅語も出されて、忠君愛国の道徳が示され、教育の柱とされるとともに、国民の精神的なよりどころとされました。(173頁) 側注欄の小コラム「?教育勅語(部分要約)」 (5)日本文教出版 第5編「近代の日本と世界」 第1章「日本の近代化」 4節「立憲制国家の成立」 単元3【内閣制度と大日本帝国憲法】 ■大日本帝国憲法と教育勅語 また、翌1890年には教育勅語が出され、天皇に対して忠義をつくし、国を愛する忠君愛国や、父母への孝行などを国民道徳の基本にすえ、教育のよりどころとするという政府の方針が示されました。(187頁) (6)教育出版 第6章「近代の日本と世界」 単元7【憲法の条規により之を行う】 小見出し「大日本帝国憲法の発布」  また、憲法発布の翌年には、教育勅語が発布されました。これにより、忠君愛国の思想や父母への孝行などの道徳が、学校教育を通じて国民に広められました。 (169頁) ・「教育勅語(部分要約)」(169頁) (7)清水書院 第4章4節「立憲政治のはじまり」 単元3【内閣制度と大日本帝国憲法の制定】 ■国民教育の制度 そして天皇の教育勅語をこれらの学校に下し、儀式のたびにこれを朗読させて、生徒たちのあいだに忠君愛国(天皇に対して忠義をつくし、国を愛すること)の精神を植えつけようとした。(185頁) (8)帝国書院 第5部第4章「近代国家への歩み」 単元4【帝国憲法の成果と課題】 ■大日本帝国憲法の発布 憲法発布の翌90年、天皇と国への「忠君愛国」および親への「孝」を基本とする教育勅語が発布されました。これは、国民の道徳や価値観の統一に大きな影響を与えることになりました。(174頁)

立命館大学の外国人研究者に靖國問題を語らせて良いのか

  • 2016.11.01 Tuesday
  • 09:38
立命館大学の研究者が?國問題に係わる暴論を述べている。 「靖国神社の存在自体が問題。解体すべき」立命館大コリア研究センター研究顧問 http://hosyusokuhou.jp/archives/48765031.html 存在自体が問題であると、外国人に言われる必要はない。 渡部昇一は、?國問題の根っこは、GHQの神道指令にあるとしている。 ///////////////////////////////////// 裸の総理たち 32人の正体 渡部昇一 64〜65頁 もうひとつ重要なのは「神道指令」が出されたことです。 昭和二十年暮れにGHQから出された神道指令は「国家神道が軍国主義日本を戦争に駆り立てたのだ」といって神道廃止を迫ってきました。もちろん、そんなばかな命令は許されるべきではありませんでした。というのも近代国家間にあっては戦争に勝とうが負けようが、その勝敗と宗教は直接からませないという大原則があるのです。 その原則は、「三十年戦争」を終わらせるために一六四八年にミュンスターとオスナブリュック(ともにドイツ)で結ばれた「ウエストファリア条約」で確立されました。三十年戦争はカトリックとプロテスタントの戦いであるとともに、ヨーロッパで覇権を確立しようとするハプスブルグ家とそれを阻止しようとする勢力との権力争いでもありました。 三十年もの長きにわたる戦争に決着をつける条約ですから、その条項には国境の確定問題などいろいろなテーマがありましたが、いちばん重要なポイントは―「原則として他国の宗教には口を出してはいけない」というところにありました。そのモットーをラテン語でいえば"cujus regio ejus religio"(統治者の宗教がその領地の宗教になる)です。 そのために、ウエストファリア条約以降は国家間の戦争で宗教が問題にされることはなくなりました。イラクを軍事制圧して「民主化」政策をやったブッシュ政権もイスラム教それ自体には口も出していません。ウエストファリア条約の"cujus regio ejus religio"が世界の常識になっているからです。 ところが昭和二十年の日本の場合だけは例外でした。占領軍が日本の神道に介入してきたのです。だから私は、あのときウエストファリア条約を引き合いに出して交渉したらGHQに反論できたのではないかと考えています。「戦争と神道は関係ない。もし関係があるというなら、原爆を落としたのはキリスト教国ではないか。なぜ神道だけを悪者にするのか」と言い返せたかもしれません。 (中略) だから私は、当時だれかが体を張って「他国の宗教には口を出してはいけないというウエストファリア条約をご存じないのか」といっていたならば神道指令は実行されなかっただろうと思っているのです。もうしそうしていれば、いまごろ左翼や中韓両国が靖国神社参拝に反対するうようなおかしな事態も起こっていなかったはずです。 靖国問題の根っこは敗戦直後のこの神道指令にあるといっても間違いではありません。 ///////////////////////////////////// 日本の大学を反日外国人の活動の場にして良いものであろうか? こんな大学に、補助金支給していいものであろうか?

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